ka-rin-blog.cocolog-nifty.com > CIPHER

光の領域 -旅のおわりに-(前編)

光の領域 -旅のおわりに-(前編)

 時は太古の言葉が生きていた頃。
光と闇が相対する世界…。闇色の魔獣が夜の街道を行き交い、魔法使いが光を操る。
 これは、そんな世界のほんの一幕。

 出会いは青い空の下と美しい森にかこまれた街。

 -セレアの闘技場-

 人々の歓声に驚き、摺鉢状の闘技場の縁で羽根を休めていた鳥たちが一斉に飛び立った。人々の歓声は衰えることなく、高まる一方だった。
 熱を帯びた闘技場の中央で、すばらしく鍛え上げられた体躯の男-悪くいえば 筋肉の塊-と少年…と思いきや、男にとっては赤子同然の少女が剣を握りしめ、向かい合っていた。二人の回りには筋肉質の、それも剣を持たせれば右に出る者はないと自負する強者ばかりが数名、大地を抱いていた。
 折しもその少女が、自分の何倍もある男たちを打ちすえ、最後の一人、この街でもっとも腕が立つといわれる男に会いまみえたところであった。
 セレアの闘技場では月の満ちる日、腕に覚えのある男たちが集まり、高額な賞金をめぐって競い合う。この日、飛び入りで参加したのは見た目にも剣を持て余しそうな、小柄な旅の少女であった。
 鼻先で笑っていた男たちは次々と少女に倒され、最後に残った男も心してかからねば、と考えを改めたところであった。
 しかしそれは一瞬にして終わった。
 互いの剣が閃いた瞬間、少女は身をひるがえし男の頭上に舞い上がっていた。近くの森からやってくる風に背の半ばまでのばした髪がやわらかく揺れ、昼間の強い日差しのせいで少女の髪はほんの少し赤く見えた。
 男は動けなかった。あっという間に背後をとられ、慌てて振り向いた時はすでに遅く、少女は男の懐に飛び込み、剣の切っ先を喉元に示していた。これが実戦ならば、少女の剣は確実に男の喉を刺し貫いていたことだろう。
 額から汗を流し、男はスルリと剣を手放した。同時に少女も素直に剣を引き、鞘へと収めた。再び満員の闘技場から拍手と喝采が巻き起こった。
「たいしたもんだ、女にしとくのはもったいないぜ」
 男は汗を拭いながら右手を差し出した。
「あんた、名前は?」
 男は敬意を込めて問いかけた。
「アニス…。ヨークの島から来た」
 アニスは笑みを浮かべて答えた。


「ええっ!クルザの山に行くのかい!?」
 一階が酒場になっている宿屋で少し早い夕食を取りながら、アニスは男たちの質問に答えていた。テーブルの上には肉、魚、酒、果物などが山積みにされていた。別にアニスが注文したわけではない。今日の勝利者に興味と敬意を抱いた男たちが次々に運んできたものだった。
「あそこは闇に属する全ての生き物を支配するという、魔王が住んでいる所じゃ…」
 口に出すのも恐ろしい、とばかりに声の調子をおとして男たちは言った。
「場所、知ってるのか?」
 言ったのは、つい先程までカウンターの隅で食事をしていた青年であった。町では見慣れぬ顔。彼もまた旅人であった。
「えっ、いや…知らない」
 何か訴えるような表情で自分の前に立ち尽くすこの青年に、アニスはしばらく呆気にとられた。
「そう…」
 青年は残念そうに首をうなだれ、再び隅の席に戻ると、まるでスローモーションのように食事を始めた。
 食事が済み、二階に用意された部屋に戻るまで、男たちは自分たちの剣の腕前のこと、今までの闘技会で誰が優勝したかなど、酒を交えてアニスに話して聞かせた。笑顔を作りながら聞き入っているようで、アニスは先程の青年のことが気にかかり、実は一人暗く食事をしている青年の横顔ばかりを見つめていた。


 翌日、空は澄んでいた。早朝、というせいもあったのだろう。
「本当に行くのかい?」
 と、少し浅黒い肌の、ぽっちゃりとした人の良さそうな宿屋の女主人がアニスに声をかけた。
「あたしにもね、娘がいるんだよ。小さい頃に行方不明になって十年以上たつけどね。元気にしてるかしらねぇディーナ…。だから心配なんだよ、あんたのような娘がクルザの山に行くことが…」
「うん、心配してくれてありがとう。でも、どうしても行かなきゃならないんだ」
 静かに、そして相手を安心させるかのように口元に笑みを浮かべてアニスは答えた。その瞳はまっすぐに目標を見据えた戦士のように思えた。女の身でそこまで言うには何か余程の事情があるのだろう…。女主人はほんの気持ちだけではあるが、昼食用のパンとチーズをアニスに持たせてくれた。
「気をつけてお行き」
 アニスは丁寧に礼を言うと、セレアの街を後にした。

 数時間も歩けば、セレアの街はすっかり遠ざかり、どんなに背伸びをしてみてもその影すら見ることはできなかった。このまま順調に歩いて行けば、二日程で次の目的地、アリコットの商業都市に着けるはずだった。端が擦り切れ、ずいぶんとよごれた地図を見ながらアニスは思った。そう、順調にいけばの話だ。

 夜になると、街道と言えど魔物が出る。そんな危険地帯は昼間のうちに通り過ぎ、なるべく安全な所で野宿しなくてはいけない。ここ三年、特別危険な魔物には出会わなかった。剣で太刀打ちできる輩ばかりであったからだ。しかしこれから行く街の途中に、魔物が多く巣くう森があると聞いた。何としてもその場所だけは昼間のうちに通り過ぎなければならなかった。だか、決して昼間なら魔物が出ない、という保証はなかった。案の定、アニスは昼日中森の手前で出くわしてしまった。子ザルくらいの大きさで黒い毛がびっしりと生えた二本足の魔獣。こんもりと盛り上がり、やけに大きい濁った目がギロリとこちらを睨む。そういう奴が二匹…三匹…いや、数十匹いるのであった。見るだけでもおぞましく、その醜い姿に普通の人間なら腰を抜かして這って逃げるか、悪くいけばその漂う妖気に発狂したことだろう。しかしアニスは違う。鳥肌こそ立ったけれども、ほんの少しなら魔法にも通じているし、今まで剣によって鍛えられてきた精神は人並外れたものだった。
「ギーッ!」
 黄色く汚れた牙を剥き出しにして一匹が飛び出した。それを合図に黒い魔獣は次から次へとアニスに飛びかかりはじめた。アニスは剣を抜くと進行方向に向かって走りだし、飛びかかる魔獣を軽やかに切り捨てていった。右、左、後方と魔獣のちぎれた体が飛んでいく。このまま突っ切って森を抜けてしまうつもりであった。が、それは無謀極まりないことであった。それに気づいた時には既に遅く、アニスは魔獣に囲まれていた。森の中で、前方、後方、そして木の上まで魔獣たちでいっぱいだった。そう、この森は彼らの根城、彼らの領域なのだから。
「ギーギーッ!!」
 いやらしい声を上げながら、魔獣たちが共鳴しあう。今ここで、一斉に飛びかかられれば、確実にアニスの体はボロぎれのように引き裂かれることだろう。アニスは左手で胸元のペンダントを強く握り締めた。丸い小さな水晶の中に、何やら太古の文字が浮かんでいるように見えた。これは三年前、旅に出るというアニスに、親友であり魔法使いでもある同じ町の少女、ルースがくれたものだった。
(この石で一度だけあなたの危機が救えるわ。一度だけよ。使う瞬間を間違えないで。)    懐かしいルースの顔とその時の言葉が鮮明に蘇った。今こそこれを使う時なのか、額に汗を浮かべながら、それでも剣を握る手に力が籠もる。
(ちがう、こんなところで使っちゃだめだ。大切な魔法だもの。もっと、もっと大切な所で使わないと…!)
 思うところがあって、アニスはペンダントを握っていた手を離すと、両手で剣を構えなおした。
 ザザーッ。
 木々が揺れ、まるで闇が動いたかのように彼らは一斉にアニスに飛びかかった。
「!!」
 父と母、弟の笑顔が脳裏をよぎった。やはりペンダントを使うべきだったか…。と目を堅く閉じ、硬直した時だった。まるで見えない壁にでも弾き飛ばされたかのように彼らの牙はアニスに届きはしなかった。恐る恐る目を開けたアニスの視界-前方にはどこかで見たことのある人物が立っていた。白っぽいフード付きのマントに身を包み、どことなく寂しそうだったプロフィールの持ち主。
「あれは…」
 彼は何やら短く呟くと、右手を高く上げた。するとその掌から昼間の太陽よりも眩しい白銀の光が迸りアニスからしばし視力を奪った。魔獣は、というと、その光を浴びたとたんまるで紙が一瞬のうちに炎に焼かれ、灰になってしまったかのようにあっという間に消えてなくなってしまっていた。
 視力を奪われ、立てないでいるアニスに彼は手をさしのべ、そっと瞼を撫でてやった。ゆっくりと開いてみると、そこには、昨日セレアの宿で会った旅の青年がいた。
「無茶はいけない」
 ちょっと無表情で青年は言った。アニスははっとなって自分の肩にかけられた青年の手を払い落とした。
「奴らの領域で、しかも剣一つで戦うなんて、女のあんたには無理なんだよ」
 別に悪気はなかったのだと思う。しかし、アニスにはカチンとくるものがあったらしく、言わなければいけないことも忘れて青年に怒鳴ってしまった。
「よけいなお世話よ!」
 アニスは青年に背を向けると、スタスタと歩き始めた。

 いつしか森を抜け、草原に面した街道になった。青年はアニスの後を一定の間隔を置いてついて来ていた。それを背中ごしに感じていたアニスの足取りは自然と速くなる。しかし青年は遅れずに、やはり一定の間隔を保ってついて来る。 
(もしかして宿を出た時からずっとあたしの後をつけて来たの…?)
 なぜ?という疑問符が頭の中に沸き起こる。
(そういえば、昨夜あたしがクルザの山に行くって言ったら、場所を知ってるのかって聞いたわ)
 クルザの山…決してその場所を知っている訳ではない。何故ならその山は地図にも載っていなければ、その場所を知っている者さえいないと言われているからだ。
 全ての魔の領域。五年前の悪夢が蘇る。
 空を覆うねっとりとした闇と魔獣たち。逃げ惑う人々。そしてアニスの目の前で…。突然はっとなってアニスは立ち止まった。
(彼は何故クルザの山に行きたいのだろう。あたしは…)
 落胆しきった昨夜の彼の横顔が思い出される。そして先程の彼…。アニスは再びはっとなった。彼が自分を助けてくれたことを思い出したのだ。 
(まだ言ってない…)
 そして恥ずかしさのあまり胸の辺りがキューッと痛くなるのを感じた。
 白い魔法使の彼は、先程の魔法で結構体力を消耗したに違いない。助けてもらったのにお礼も言わず、よけいなお世話だと言い切った。彼はきっと怒っている。怒っていないはずがない。アニスは我ながら自分の言ったことに赤面せずにはいられなかった。
(あやまるべきだよね)
 誰に問うともなく、アニスは心の中で呟いた。
 勇気…。魔獣を百匹相手にする時の何千倍もの勇気が必要のように思えた。アニスはおもむろに振り向いた。それにギョッとなった青年が立ち止まる。青年が動かないでいると、アニスはスタスタと彼の前までやって来て、表情をゆるめず言った。
「おなかすいてない?」
「はぁ?」
 突然何を言い出すのかと思いきや、アニスはそんなことを口走った。
「すいてるはずよ。それからものすごーく疲れてるはずよ!ねえ、疲れてるでしょ?おなかすいてるでしょ!?」
 胸元をグイと引っ張られ、はたから見ればケンカを売られているような姿で青年は返す言葉が見つからなかった。
「ねえ!」
 再び胸元をグイと締められ、青年はあわてて返事をした。
「う、うん…」
「じゃあ、あの木の下で食事をしよう。宿屋の女将さんが持たせてくれたパンがあるんだ」     彼の返事に満足し、街道の少し外れにあった大木の元へアニスは歩き始めた。そんなアニスの後ろ姿を数秒見送っていた彼もすぐにそれに従った。
 早速草の上に布を敷き、パン、チーズ、少しの果物が並べられた。
「食べて」
 まるで青年を睨むかのようにアニスは言った。
「…ぜ、全部?」
 まさか、と言わんばかりのびっくり目で青年は言った。
「うん」
 アニスは大きくうなずいた。
「でも…」
 と、言いかける青年の言葉にかぶさるようにアニスは大きな声で言った。
「さっきはごめん!それからありがと」
「…」
「あの時、あんたの一言で、剣の腕を、今までの努力と道程と、それからこれからの道程をもすべて否定されたような気がして、それにあの時一瞬だけど迷った自分に腹が立ってたの。守りの魔法…あ、これ、友達の魔法使いにもらったんだけどね、これを使うべきかどうか。だけどこんな所で使っちゃだめだって思ったの!もっと、何か大事な瞬間が来るんじゃないかって、思って。その前に魔獣に殺されちゃったら元も子もないんだけどね。でもね、本当に使っちゃだめだって思ったの。それなのにやっぱり使えばよかったって心のすみで思って…そんな自分にすごく腹が立って…本当にごめんね。八つ当たりだった」 アニスはうつむくと黙り込んだ。
「!?」
 驚いて顔を上げると、そこにはやさしく微笑む青年魔法使いがいた。彼の手がアニスのやわらかい髪からはなれる。
 家族で幸せに暮らしていた頃が頭の中に蘇る。初めて剣を使えるようになった頃、父が大きな手で頭を撫でてくれた。母はケガをしないかと心配そうに見ていた。そして自分にも剣を教えろとせがむ弟…。
 目の前が一瞬真っ暗になった。そして沢山の人の逃げ惑う叫び声がこだました。が、次に浮かんできたのは出会ったばかりの魔法使いの笑顔だった。
 我に返ったアニスは目線を逸らした。泣いてしまいそうな気がしたからだ。この安心感はどこからくるのだろう。今まで溜め込んでいたものが彼の笑顔ひとつで洪水のように表に出てこようとする。必死にこらえよえとしても、それはアニスの思いとは反対にふくれあがっていく。振り切ろうと、おもいきって顔を上げると、木の幹を背に心地よく眠りに落ちた魔法使いがいた。何とも無防備な、そしてあどけない寝顔だった。
 妙な魔法をかけられた気分だった。いつの間にかあふれだした涙は止まることを知らず、悲しいような、おかしいような気分が交差して心を少し軽くしてくれた。
 夕刻間近の冷たい風が二人の横を通り過ぎた。今日はこのまま野宿すればいい。
 心地よく眠る魔法使いを見つめ、アニスはそう思った。


 翌朝、赤く腫れた瞳の意味を魔法使いは聞こうとしなかった。だがアニスは自分から事の次第を話始めた。
五年前、魔族の来襲で自分の住む街が闇に陥れられたこと、そして目の前で弟が魔王につれ去られたこと。無力であったため、なすすべのなかった自分のこと。強くなりたいと願ったあの頃。そして今日までの道程。
 魔法使いは黙ってアニスの話を聞いていたが、一言だけポツリと言った。  
「おなじだな…」
 とっさに見つめた魔法使いの瞳はどこか遠くを睨みつけているようで、切なかった。
「オレも小さい時に生き別れになった双子の兄を探しているんだ。クルザの山にいるはずなんだが…」
「!?」
 アニスは驚いて魔法使いの横顔を見つめ続けた。
「じゃあ、あなたのお兄さんも魔王に!?だからクルザの山をさがしてるの?」
 魔法使いは答えなかった。答えないかわりに、ため息にも似た笑みを口元に浮かべた。魔王につれ去られたからには、もうすでに命はなくなっているかもしれない。そう、アニスの弟も、魔法使いの兄も…。しかしいちるの望みは捨て切れなかった。万が一、ということもある。その望みがあったからこそここまでこれたのだから。
「ねえ、そういえばあなたの名前、聞いてなかったね。あたしはアニス。あなたは?」
 このままでは思考も悪い方へといってしまいそうで、アニスはおもいきって話題を変えた。魔法使いは不意をつかれたように驚き、アニスの顔を伺った。
 先程の話とは裏腹に、少し晴れやかな表情がそこにあった。
「オレはサイファ。ロサンの街の魔法使いだ」
 自然と笑みがこぼれた。アニスは何だか今まで以上に強くなれそうな気がし始めていた。それは剣の腕前や力量などではなく、心の底から沸き上がってくる形のないもののようであった。

 セレアの町を出て二つめの朝を迎えた二人は、ただひたすらと歩き続けていた。早朝の冷たい風が二人の頬をなで、通り過ぎて行く。二人は歩くことによって冷えた体を暖め、なおかつ少しでも早くアリコットの街にたどり着こうとしていた。アリコットの街に着いたら宿を取り、温かい食事とベットを確保しよう。そしてできるだけ沢山の、クルザの山に関する情報を集めよう。二人の思いは同じだった。

 赤茶けた煉瓦造りの外壁が見えてきたのは昼を少し過ぎたころだった。アリコットの街をすっぽりと包み込むようにして作られた煉瓦の外壁は西と東の2カ所にしか出入り口はなく、だからといって困ることもなく、旅の商人たちで栄えたこの街の特徴であった。入口を入ると大きな通りが一直線にのび、その大通りや左右にのびる路地などに人々が入り乱れ、質のいい物からそうでない物、めずらしい異国の物から日常品の数々までが所狭しと並べられ、売り買いされていた。もちろん人の出入りも激しく、街の入口、出口にまで店を出している者までいるしまつ。とにかくアリコットの商業都市は他と比べても、とても華やかで活気のある街であった。
 その街の西の入口で二人は戸惑っていた。何故なら人の波の絶えることのなかったこの街に、何ものの気配も感じることができなかったからである。東にのびる大通りには大風にでも飛ばされたかのように木材や布、陶器のかけらなどが散在していたし、通りに面した家々も戸や窓枠が外れ、ひどいところでは屋根までもが破れ、まるで何十年も人の住んだ様子がないような、そんな有り様だった。
「これは一体…」
 サイファは呟いた。
「五日程前、セレアの街でアリコットからやって来た商人に会ったけど、市はいつもどうり賑わい、しかも良質の鞣革を手に入れたと自慢しているのを耳にしたんだが…」
 途方に暮れた二人は、仕方なく入口のアーチをくぐり、大通りをゆっくりと歩き始めた。
「誰もいないのかな」
 アニスが左右を見渡しながら呟いた。
「どこかの家にはいって…」
 入ってみようか、とアニスが提案しかけた時だった。サイファの右手がスッとのび、アニスの行く手を遮った。
「何?」
 問うアニスにサイファは人差し指を口元にもっていき、「静かに」と動作で答えた。
 前方を凝視するサイファに、アニスも同じように前方を見つめ、耳を澄ました。
 ゴォォォォ…。
 最初は微かに、しかしそれは次第に大きくなり、いつしか耳だけでなく目でも確認できるようになっていた。
「何…あれ」
 呆然と見開いた目をそれに向けて、アニスはその場に立ちつくした。それは巨大なアメーバーのように黒くドロドロと渦巻いているように見え、竜巻のように空を覆いつくし東の空から近づいて来た。今まで見たことのない巨大な黒い塊、邪悪な魔法で固められたそれは半壊した家々を全壊させ、レンガといえど鉄といえど、吹き飛ばし粉々にしていった。 そいつの接近により、二人の回りの風も騒ぎだし、近くの家の屋根を飛ばし、その猛威を見せつけた。二人は両足に力を入れながらも、どうするべきか全くわからなくなっていた。ただ一つだけわかっていたのは、このままこの場所にいれば正体のつかない黒い塊に飲み込まれ、その存在を無くしてしまうだろう、ということだった。
 飛んでくる物を避けようと手で頭をかばい、なおかつ動けないでいる自分に、それぞれ苛立ちをおぼえていた。その時だった。

「何してるの!こっちよ!」
 腕をぐいと引っ張られ、二人の足は生まれて初めて動いたかのように思えた。何がなんだかわからないまま狭い路地に引っ張り込まれ、何げなく振り向くと、先程まで二人のいた場所を黒い物体が通過しているところであった。
 一方的に腕を引っ張られ、それに従いしばらく走り続けて二人は気が付いた。大通りに面した家々に比べ、奥の方に入るにつれて無事な家が多く存在することに。
「ここまでくれば大丈夫よ」
 肩で息をしながらその人物は言った。
「一体何なのアレ、生き物?」
 額の冷や汗ともつかぬものを拭いながらアニスは言った。
「あれは魔王の作り出した魔法の塊。あいつのせいで、もう、いくつもの村や街が壊滅させられたわ。私達の街もこのとおり。かろうじて逃げ延びた人達が街の一番奥の比較的無事だった所へ非難しているの。ところで、あなたたちは旅人?私はこの街の商人の娘、アンブローシア」
 アンブローシアと名のった女性はにっこりと答えた。

「数日前までは何でもない、とても平和な街だったのよ。それが突然あいつがやって来て…」
 アンブローシアは拳を強くテーブルに叩きつけた。ここは街の最も奥まった所。辛うじて残っていた無傷の家々に逃げ延びた人たちが暮らしていた。
「あいつって、さっきの黒い塊?」
「そう!あいつのせいで街の半分以上が壊され、沢山の人の命もなくなったの。町外れに住む魔法使いが戦ってくれたわ。でも、彼の手に追えるものじゃなかった」
「そんなにすごいパワーなの…?魔王の魔力って」
 アニスは、これから自分が立ち向かって行くべき者の未知の力を思い知らされたようで、鳥肌が立った。
 ゴゴゴゴゴ…
 突然の地響きが彼らを襲った。
「何!?」
「またあいつか!?」
 無駄とはわかりながらもアニスは腰の剣に手を伸ばした。
「ここも安全な場所でなくなりそうだな」
 サイファも立ち上がった。
 残っていた数十人の街人たちが悲鳴を上げながら散り散りに逃げ始めた。運悪く逃げ遅れた者は、気の毒にも黒い魔法の餌食となり、消えて行った。アニスたちもアンブローシアの手引きで細い路地をいくつも抜け、街の出口を目指して走った。
「彼が帰って来るまで、ここを動きたくなかったのに…」
 アンブローシアは後ろ髪を引かれるように呟いた。
 黒い魔法の猛威を見せつけられ、東の入口を抜け、街を少し離れた小高い丘の上にたどり着いた三人は、砂ぼこりを上げ、壊滅していくアリコットの街を呆然と眺めていた。
 黒い魔法の塊は、アリコットの街を破壊し尽くすと、そのまま別の獲物を探すかのようにどこかへと消えて行ってしまった。
 辺りに静寂がもどった。

「何?それ」
 アンブローシアが、首からぶら下げた金属の輪っかのようなものをいじっているのに気づいたアニスが尋ねた。
「これ?これはね、小さいころ幼なじみにもらった指輪。ただのガラクタなんだけどね。」
 少し照れくそうに、それでもアンブローシアは愛しそうにそれを握り締めた。
「幼なじみって?」
 今度はサイファが尋ねた。
「今はフィアンセ。私の新しい指輪を作るんだって、それでシスの森で良質の水晶が取れるという噂を聞いて、出て行ったきり帰って来ないの。もう二年になるわ」
「シスの森か…。確かに、その話は俺も聞いたことがある。だがあそこには“森の番人”がいるとも聞いたが」
「そうなの。だから私、新しい指輪なんていらないって、彼さえ側にいてくれたらいいって…言ったのに…。森の番人に出会って生きて帰って来た者はいないというわ。もしかしたら彼も…」
 アンブローシアはペンダントを握り締めたまま膝を折った。
「ねえ、シスの森って?森の番人って?」
 一人話の見えないアニスがサイファのマントの裾を引っ張った。
「ああ、あんたは知らないんだな。ほら、あそこがシスの森だ」
 サイファは振り向くと、指さした。街道から二、三百メートル離れた所に鬱蒼と茂る森が広がっていた。アニスには何の変哲もない森に見えた。
「どれくらい深い森かわからないんだ。それなのに良質の水晶が取れるという噂が流れて、人々はこぞって森に出掛けたんだが誰一人として帰って来なかったという。ある魔法使いが、それは魔王の息のかかった森の番人のせいだろうっていうのさ」
「それ、本当なの?」
「さあ、どこまで本当だか」
「だけど、アンブローシアの彼も森へ入ったきり帰って来なかったんでしょ?」
「道に迷ったって可能性もあるさ」
「ねえ、アンブローシアはどう思って…」
 アニスはアンブローシアの方を振り返った。アンブローシアはペンダントを握り締めたまま、じっとシスの森を見つめていた。
「行ってみる。街はなくなったから、彼が帰って来てもわからないわ。だから私が迎えに行くわ」
 アンブローシアはかすかに笑みを浮かべて駆けだした。
「えっ、ちょっと!」
 アニスは慌ててアンブローシアの後を追った。
「…」
 厄介な。と言わんばかりにサイファも走りだした。

 程なくアンブローシアはシスの森の入口にたどり着き、何のためらいもなくそのまま森の中へと入って行った。
「まって!アンブローシア!」
 アンブローシアに遅れることほんの数秒。入口にたどり着いたアニスだったが、森の奥へと続く道には、まるで何かにかき消されたかのようにアンブローシアの姿はなかった。
「アンブローシア!」
 アニスはアンブローシアの後を追って森の中へと入って行った。
 夕刻迫るシスの森は、やはり外の森と違いどこか不気味だった。あちこちで下等な魔物がちょろちょろと動き、茂っている木々もどこか禍々しさが感じられた。
「グァーッ!!」
突然茂みの中から魔物が襲う。それをあっさりとアニスは切り捨てた。剣の血を振るい落とし、鞘におさめる。
 ふと、足元を見た。足元にはまだピクピクと動く生暖かい魔物の残骸があった。
「あれ?」
 アニスは何となく回りを見渡した。
「あたし、何してたんだろ…」
 今度は空を見上げる。しかし、そこは木々の葉に覆いつくされ何も見えはしなかった。