ka-rin-blog.cocolog-nifty.com > カラフルBOX

かぎろひ

かぎろひ

「花枝室」さま 5万前後賞キリリクで頂きました。


 丘は桜並木の花盛り。そこに立てば、遠くに広がるなだらかな山々は薄紫に輝き、晴れ渡った空に白い雲も柔らかに、頬をなでる風も優しい。山の裾野を流れる川の水面がきらめき、遠くからだと一条のラメのリボンのように見える。桜だけでなく、草原に点在するすみれやたんぽぽやナズナといった当たり前の野の花も、いっせいに一番愛らしい姿を見せていた。光は眩しく暖かく、綺麗な遊歩道を散歩する人影が少ないのが残念な、穏やかな春の一日の始まりだった。
 その丘の上で、眼下の自然公園の広がりを黙って眺めている小さな背中に、そっと歩み寄った影がある。黙って振り返った愛想なしの顔は、その相手に「来たのか」としか言わない。それでも言われた相手の端正な顔が、柔らかく笑んだ。
 「あのあと、花精たちが元気でいるかと思ってね」
 とたんに空中に玄妙な動きがあって、柔らかな薄物を翻した天女さながらの姿がいくつも現れた。
 「東皇使様」
 「東皇使様もお越し下さるなんて」
 「やあ、花精たち。つつがなく咲いているかい」
 「もちろんでございます」
 「東皇使様と、御大花将さまのおかげをもちまして」
 「本当に素晴らしい春を呼んで下さって」

 傍目には、虚空に手を延べているのは、気の早い桜が散りかかるその花びらを捉えようとしているかのように見える。空中を飛翔する乙女たちも、その姿と言葉を交わす地味な黒の制服姿の少年も、人ではなかった。そうした語らいを黙って見ている華奢な少年もまた、むろんのこと。
 
 「御大花将様も、あの時はありがとうございました」
 「ほんとうにありがとうございました」
 「東皇使様をお救い下さったあの時の凛々しいお姿」
 「忘れられません」
 「今のお姿もやんちゃで、おかわゆらしくていらっしゃいますが」
 そう言われた少年の姿は、白いアンゴラのセーターにダークブラウンのハーフパンツ。オフホワイトの薄いスプリングコート、キャメルのショートブーツ。どれもこれも素材が良く仕立ても良く、洗練されたラインが美しい。軽く眉をひそめる少年をほれぼれと見遣って、小鳥のさえずりのようなくすくす笑いが広がる。

 そのきかん気らしい表情に、制服姿の少年が可笑しそうに微笑んだ。
「蕾。花精達はからかっているのだよ」
 ふん、と顎をあげた少年は「花精達がそれほど元気で、何よりなことだ」と憎まれ口を返す。ほんの三ヶ月ほど前、あれほど心配した土地の春爛漫の姿に、内心どれほど喜んでいるか分かっているのは、隣に立っている優しげな少年だけだっただろう。

 そう、暦の上で新しい春を迎えたばかりの頃にも、この華奢な少年の姿がこの地にあった。丘を下りてすぐ隣の、森の入り口に佇んでいた。古い年の末から新しい年の始まりにかけて、異常気象と心配された気候が続いて、そうでなくとも遅れていた春の足取りが乱れていた、あの時。

            ********************

 あの時も空は薄い水色に澄み、なだらかな山影に、午後も遅くの陽差しが豊かに降り注いでいた。陰の気の極まる時期は冬至を過ぎて反転し、毎日ほんのわずかずつ夕暮れが長くなる。いにしえより数多くの恵みをうけたこの土地は、ひなたぼっこで毛並みがふかふかに暖まった猫のように、機嫌良くのんびりと寛いでいるように見える。なのに、その小さな丘を下りた森の外れに舞い降り、ひっそりと何かを待つ小さな背中には、どことはなしの緊張があった。風がその薄茶色の繊細な前髪に戯れ、形の良い額の白さを暴いていく。人っ子ひとりいない、静かな風景だった。

 「御大花将様」
 森の奥から滑り出るように現れた姿は、空から舞い降りた少年の姿にそう呼びかけた。
前髪を結い上げ背中には長い黒髪を揺らして、白い袴に白い衣。一番上に羽織っているのは、右の身頃に金の日輪の刺繍、左の身頃に銀の雪輪の刺繍のあるひどく変わった錦織りの衣だった。陽の光のような暖かな蜜柑色の蝶結びの飾り帯を、胸高にきりりと締めている。
「珍しいな、透陶使。何があった」
 ゆるゆると挨拶のために小腰をかがめた優雅な礼には、ただ小さく肯いて見せただけで、気短な問いかけをする。
「静峻使からも言われておりました。何かがおかしいのでございます。この時期に咲く寒牡丹の目覚めが遅いのは、今年はいたしかたないことでございましょう。でもそれだけではありません」
「どうした」
「春に咲く木々の花芽が動いておりません。地中で冬越ししている様々な球根もつぼみを準備しておりません。このままでは、春になっても花が咲くことができません」
「確かに、土地全体の花気が薄い」
 御大花将と大層な肩書きで呼ばれた少年は、あたりを探るように見回した。静かな冬の陽に照らされた自然公園は、眠っているかのように穏やかに広がっているばかりだが。
「しばらく様子を見よう」とぽつりと呟いた少年は、白い姿を振り返ると「もう少し廻ってみる」と声をかけてふわり、と飛び上がった。「どうかお気をつけて」と呟いた透陶使の声は、もう背中で聞いていた。

 日が傾き、夕暮れが過ぎ急に寒くなってくる。夕まぐれの闇の中を万葉の丘と自然公園の上空をゆっくりと旋回する。何度まわっても、さしたる危険な兆候は見えない。ただ、花精たちがよほど深く眠っているものか、あまり反応がないのが気にかかる。こんな時期ならもう、春を待ちきれない気の早い花精が起き出そうとして、北風軍の若い衆にからかわれたりしているのに。何かあるなら、逢魔刻も過ぎて、日が落ちてからかもしれない。白い装いが薄暗がりにも目立つのを警戒して蕾は森に戻り、大きなクヌギの樹の下で待った。樹精もまた眠っているのだろうか。そっとその幹に手を当ててみても、なんの反応もない。
 (確かに、どこかがおかしい。風は何かを知っているだろうか。何が隠れているというのだ、この丘に)
 しばらく考えて、蕾はふいとくらい夜空に飛び上がった。

          ***************************

 「気をつけて、透。さ、これを飲んで」
 「・・・・・・なんだよ。苦いのヤダ」
 「苦くないから」
 薄曇りの午後、ベッドに起きあがった少年の背中をささえ、水の入ったコップをその口許に寄せてやる、地味な制服姿の少年がいた。年明け早々寝込んで、誰かに看病されている不運な風邪ひきなんて都内に沢山いただろう。このマンションの一室にいるのも、そのひとりに過ぎないのかもしれない。だが、この風邪ひきは、都内一の果報者かもしれなかった。
 「あれぇ、東雲じゃん。なんでここにいるんだ・・・・・・?」
 何か分からない粉をさらさらと口中に含まされ、冷たい清水でごくりごくりと飲み下した病人は、やっとしっかり目を開けて自分を支えてくれている腕の持ち主の顔を確認した。
 「なんでって、透。昨日の夜、夕姫ちゃんに電話しただろう。風邪だから初詣は日を変えようって。夕姫ちゃんが心配して家に電話をくれたので、今日見舞いに来たのだよ。そしたら君が、服のまま床に伸びてたから。まさか、夕べの電話の後からずっとかい?」

 透はぎくりと身を固くした。ちゃんと清潔なパジャマに着替えて、新しいシーツのベッドにぬくぬくともぐりこんでいる。部屋は適温適湿。額の汗も背中の汗も拭いてあって、さらさらして気持が良い。床に散らかした雑誌もゲーム機も片づけてあるし、観葉植物の鉢に水までやってある。
 (これ全部東雲が・・・・・・?)
 礼をいわなきゃと慌てたとたん、キッチンでピーッッとヤカンが音を立てた。
 「何か暖かいものでも飲まなくちゃね」とにっこり立ってゆく。
 (うへ。名医と超可愛い看護婦さんがいっしょになっちゃってる感じ)
 妙にどぎまぎしながら、蕾はどこに行ったんだろう、とふと心配になる。

 「東雲。蕾はどこなんだ」
 「う~ん、例によって、呼び出されているようだね」とキッチンで声がした。
 気のない返事だが、だまされない。東雲はいつだって蕾のことが気がかりなのだ。蕾だってそうだ。頑なに蕾が何も言わない時でも、何でか、東雲には蕾の居場所がわかるらしい。どうやらその逆も同じで。
 
 「レトルトで悪いけど」といいながら東雲が、お粥と梅干し、たっぷりの煎茶などを盆に載せて運んでくる。綺麗にむいた林檎まで皿に盛ってある。ベッドサイドテーブルに盆を載せて、次は。
(おでこに手を載せて、熱はもう下がったわね、ってゆってくれる?)
 「熱はもうないね」と額に載せられたひんやりした手にそっと自分の手を重ねて、透はへへ、と照れ笑いをした。身体のなかに、清らかな風が吹き渡ったような気がする。
 (オレってば、天界の皇子さまに看病してもらっちゃってんだぜ)
 「風邪ひいて得した気分」と軽口をたたく透に、東雲は不思議そうに笑ってからキッチンにおいてあった紙袋を見せた。

「これ、誰かからのおみやげかい? ドングリ付きの吟醸酒」
「ああ、堀口のお兄さんからって貰ったんだ。堀口たちと、おとといカラオケいった時。兄ちゃんと一緒にN県に行ったんだとよ。正月だし、ま、良いだろ、飲んでって」
 「このドングリは?」
 「え、堀口が拾ったんじゃないの? なんか、兄ちゃんと『かぎろひを観る会』で自然公園に行ったって言ってたから。そんな珍しいドングリ?」
「そういう訳じゃないんだ」

 白い手の平に転がる3個のドングリは、しかし、東雲が何か呟いて指で触れたとたん、黒い雲のようなものがわいて、あっという間にぼろぼろに朽ちてしまった。
 「えっ、なんかコワイモノだったんかよ~」
 「君が倒れた原因かもね。ず~っと君の精気を吸い取っていたんだよ」
 「うへぇ。きびわりぃ~」
 
 顔をしかめる透を「もう心配ないよ」となだめて、東雲は「少し何かお腹にいれるといい」と勧めて、お粥を食べながらの透の飛びがちな話を、にこにこと聞いた。

 「堀口の兄ちゃん、前も秘湯探検で秩父の山奥行ったりしてただろ。今度は、『かぎろひを観る会』というのに行ったんだと。旧暦の11月17日にそんな会があるって。夜明け前に山に登って暁を待って。気象条件とか気温とかがあわないと難しいけど、その夜明けに空が、ものすごい綺麗な色になるんだとよ。えと極光ってオーロラ? なんかそんな風にも見えるらしい」

 「そのかぎろひ、というのは、万葉集にある柿本人麻呂の歌からだね?」と東雲が口を挟んだ。「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」とすらすらと朗誦してみせる。
 「万葉集って5月頃やったっけ。お前良く覚えてんな。な、かぎろひって、何? かげろうとかぎろひは、違うの?」と林檎をかじりながら透が訊ねた。きれいにお粥を平らげお茶も飲んで、だいぶ気分が良くなってきたらしい。
 「ものすごく寒い日の風のない晴れた早朝にね、午前四時頃かな、太陽が地平線上に現れるその約1時間前から見られるというよ。金色の陽の光じゃないんだ。寒いと大気中の水蒸気が凍って氷の結晶になって、散らばっているだろう。それが、朝焼けの太陽光を反射し起こるんだと解釈されている。つまり太陽光線のスペクトルにより現れる最初の陽光で、青や橙色の輝きがだんだんと空を染め上げていくんだよ」と、分かったような分からないようなことを言う。
 「ぬくもった地面が空気を暖めて、ゆらゆらさせるようなかげろうとは違うんだな」
「だが、かぎろひもかげろうも、『陽炎』と書く。陽炎は、春の枕詞でね、私にとってはどちらも大切なことなんだよ」と東雲は呟いた。

 「今年はまだ観られなかったらしいぜ。その頃、妙に暖かかっただろう。厳寒、じゃないと駄目なんだってな。葛湯とか芋汁のお振る舞いがすげー美味しくて、温泉に入ってそれは楽しかったんだと。けどやっぱ風邪引いてずっと寝込んで、そんでおみやげ渡すのが年明けになってごめんな、なんて言われたけど、もしかしてあのうすきびわり~ドングリのせいかな」
東雲は透に黙って肯いて見せた。そして、ベッドサイドの椅子にかけていた腰を浮かしかげんにしたのに、「ちぇ、なんだよ、もう行くんかよ~」と透が面白くなさそうに呟く。
「なんで」
「なんか悪りぃことがあるんだろう、また」
 東雲は透の顔をのぞき込んで微笑んだ。
「お盆を下げてくるよ、透。薫殿が帰ってくるまでいよう。それとも、眠くなるまでいようか。枕元で、休み明けの実力テスト範囲の教科書を読んであげても良いよ」
「熱が上がるっての。へっ、別に淋しい訳じゃねぇよ」と言い募る肩をちょっとつついて横にならせ、布団を掛け直して、ぽんぽんと叩いてやった。

 (倒れていた透を起こしたとき、熱で混乱していた透は「すみません池田さん・・・・・・」と呟いた。普通は、「お母さん」だよね)
病気の時にもおそらく家政婦さんだろう人の名を呼ぶしかなかった透の、子ども時代がどんなものだったか、東雲には少し分かったような気がした。

             **********************

 夜半、透のマンションのヴェランダから飛び出し、ひっそりと黒っぽい制服姿で空に浮かぶ影がある。どんなに寒いときでも、いつもコートなしの簡素な制服姿は、その本性の艶めかしさをわずかばかりは隠す役目をしているかも知れない。その姿はやがて、東京をかなり離れた古い都の自然公園の、広大な敷地のはずれの丘陵地に、降り立った。
(夜とはいえ、どうせなら、見晴らしの良いところがいい。怪魔が出てくるにしろ、突然の出会いはごめんこうむりたいものだが)
 本来ならばそろそろつぼみがつこうかという、水仙が植わっている一角である。暖かい斜面にあるのが幸いするのかここの水仙は花をつけるのが早く、冬支度で散歩に来る人々を芳香で喜ばせ、きつく巻き付けたマフラーをふっとゆるめさせたりするのだったが、今年はただ緑の葉が伸びているだけだった。その葉にもどことなく力がない。あちらの松林の誰か樹精を起こして、話が聞けるだろうか。さて、と東雲が思案したとき、敷地の奥から、小さな声が聞こえた。

 「どこです」
 星の光すら凍えたような夜だが、走り出した東雲の目には水仙の苑のはずれ、薄物をまとった細い肩が震えて、うなだれて泣きじゃくっている小さな花精の姿が見えた。
「どうしたのです。何を泣いているのですか」と近づいて、驚かせないようにそっと肩を抱いた。濡れた袖から顔を挙げたものの、伏し目がちに「貴男さまは」とまだ涙が止まらない花精に、「私は、天界の東皇使。このあたりの花の目覚めが遅いのを心配しているのです」と答えながら、東雲はふと、その華奢な姿のどこかに違和感を持った。
「いいえ、それは違います。貴男さまが東皇使様のはずは、ございません。もう春は来ないのでございます。もう永遠に春がこないのでございます。人間が愚かなために、下界の水を汚し緑を枯らし風にすら悪いものを載せて飛ばした。その報いで、もう春の恩寵を失ってしまったのです」
「馬鹿な」
「いいえ、本当です。春は来ないのです。私たち、どんなにこの冷たい暗い土の中で待っていても、どんなにがんばって花芽をつけようとしても、総て無駄なのです。私たち、咲けないままに死ぬのです。ああ、いっそもう今、死んでしまいたい。どうせ総てが無駄なら、なにを好きこのんでこんな闇の中で苦労しながらひっそりと春を待つでしょう」
「落ち着きなさい。春は必ず来ますとも。春の宰主であるこの私が言うのだから間違いはない」
「イヤです。嘘です。咲けない。咲きたくない・・・・・・」    

 だだをこねる花精の華奢な肩を揺さぶりながら、東雲はどこがおかしいのか首を傾げた。そんな東雲の首に、ひしっと花精が取りすがってくる。やがて、心細そうに取りすがった腕がゆうるりと動いて、細い指がそっと東雲の首にかかった。
「待ち、なさ・・・・・・」
いきなり思いもかけない強い力で喉元を締め上げられて、息ができない。東雲はその花精の白い指を引きはがそうとし、花精の顔をまともに見て得心がいった。
「お前、何かに、あ、操られて」と後は喉がつぶされておもうように声が出せない。力任せにふりほどいて、花精を傷つける訳にはいかないものの。

 (こんな力では・・・・・。霊玉を)ともがきながら、東雲はどうにか花精をふりほどいた。
「し、森玄霊玉祓濯っ」
必死に唱えて、霊霧が花精を取り巻くと共にその身体ががくりと膝を折るのを、確認する。その身体から、薄暗い闇が立ち上ったように見えた。東雲がぎくりと身を竦ませて、一歩後退する。その闇は夜の暗がりの中に拡散し、その暗がりの奥から、幾つもの白い影が東雲めがけて集まってくる。

「どうして春が来ないのでございますか」
「もう春は来ないのでございますね」
「私たち、咲けないのですか」 
「このまま、咲けないのですね」
「咲けないままでいるのなら、もういっそこのまま儚くなってしまいたい」
 取り囲まれ、口々に悲しげにうらめしげに語りかけられて、東雲は進退窮まった。霊玉を、と思ってもいつの間にか四方八方から絡みつかれ腕をとられ、身動きできない。花精であれば守護の杖を呼んで滅するのもはばかられ、迷っているうちにひんやりと冷たい花精達の指が腕が、五体を地の底に引きずり込もうとする。
「止しなさい。離すのです」と、あくまで礼儀正しく制止しようとする東雲の喉に、後ろから指が絡みつき、背中の上にのしかかるような重みが増して、たまらずに地面に倒れ込んだ。息もできないまま、背中の重みに押されるように意識が遠のいていく。


 ぴちょん、と水音がする。耳を澄ませていると、ほどなくもう一度、微かな音がする。
(水の・・・・・・)
東雲はゆっくりと目を開けた。薄暗い中、どこかに酷く冷たい気配がする。ぎこちなく上体を起こして、地の底の洞窟のようなところにいるのを知った。燐光のようなあやしい青い光が岩肌に輝いている。かなり広く、天井も高い。飛ばないことにはどこに出口があるものか、端が見えないくらい高い。
 (ここはどこだ。あの時の花精達は)

 「お目覚めか。春を司るお方」
ぎくり、とその声の方に振り返る。邪念が霧のように身を押し包んだ。
「誰です」
「名のるほどのものではないが、春の宰主とあっては逃がすわけにもいきません」
 にたりと笑う顔の主は、枯れ草のような薄黄色のざんばら髪を乱して、白い能面のような端正な顔をしている。派手な紫の指貫に浅縹の狩衣、妙に老けたような目をしているのに、つるりとした肌がかえって気持ちが悪い。
「私を知るものであれば、狼藉はやめて花精に悪さをするのをおよしなさい。そなたでしょう。春がこないという悪夢を花精に信じさせたのは。どういうつもりです」
「・・・・・・ひとこと喋るごとに、春の気配が漂うのもそのお役目ゆえでしょうかな。ますます花精に見せるわけにもいかない。それにその春の気、そのまま喰らったらさぞや精力がつこう。実に美味そうだ」
独り言のように呟きながら、妖しい姿が近づいてくる。舌なめずりして、にやりにやりと笑っている。目をじっとその姿に据えたままじりじりと後退しながら、東雲は右手を伸ばし、守護の杖を呼んだ。いつもなら空中に影が凝るようにして杖が現れるのに、それが来ない。
「・・・・・・私は怪魔ではございませんから。この結界は、それほど邪悪なものとも思われていないのでございましょうとも」
 くく、と喉で笑う声が気味が悪く響く。近寄れば伸ばした指先に鉄のような長い爪が鈍く光っているのが見える。
「およしなさい。離れなさい」

 じりじりと後じさった東雲の背中にドン、と濡れた土が触った。洞穴の壁に突き当たってしまったらしい。
「いざ、その春を所望」と叫んで妖しい姿が腕を伸ばし、爪でざくりと東雲の肩口を引き裂いた。爪の先が錆びた鉄のようだった。切り裂かれた傷口から血が流れるのを、その妖しい姿はうっとりと眺め、長い舌でべろりと自分の爪を舐めた。
 「ほほ。血まで甘いとはこのこと。天界の貴公子とは気の塊でございますな。どれ」と近づくと、ひじで顔を隠しまた身をよじった東雲の、今度は肩胛骨のあたりを引き裂く。
 「顔を庇っていらっしゃるのですかな。安心なさい。目をえぐり舌を抜くのは最後までとっておきますよ。・・・・・・ほら、そうやって怖れおののくその悲しみや苦しみこそが私の糧なのだ」
 「お前は、それで花精に」
 いきも絶え絶えに東雲は呟いた。
 「そう。眠っている花精の夢に滑り込んでは、春が来ない悪夢を見せた。地上の滅んだ幻を見せて怯えさせ、この冷たい室に連れてきては、苛んだ。私が花精に何をしたか、知りたいですかな。これからゆっくりと聞かせて、貴男にも同じことをしてさし上げよう。悲しみと苦しみと痛みで悶え苦しむその絶望の心こそが、私の悦楽。私にとっては甘美な極上の蜜なのだから」
「よしなさい、お前、一体」
爪を避けようとして身をかわしながら、ひやりとした。首筋を狙われたら、ひとたまりもない。左右に身をかわしながら、必死で逃げ道を探すが、鉄のさびが毒のように身体を蝕んで、考えがまとまらない。
「止めよ」と言うつもりで声がでず、今度の一撃をよけきれないと絶望的に思う。

 その時、朦朧とした東雲の視界の端を、小さなものが掠めた。はらり、はらりと薄紅の花びらが散りかかる。気を失いかけた東雲の頬にその花びらがふれる。一気に花びらが荒れ狂うように渦巻いた。声にならない悲鳴が深夜の空気を震わせ、こだまする。東雲を脅かしていた邪念が、ふい、と小さくなった。瞬時に覚醒すると共に、地面にくずおれていた自分の前に立ちはだかる小さな背中を確認した。耳がそっけない声を拾う。
 「しっかりしろ、馬鹿者。弱いクセに出しゃばりおって」
 「き、来てくれたのだね」と囁く。声に安堵が溢れるのをおさえられないのが、われながら忌々しい。しかし、ほっとして気が緩んだのか、あまり感じていなかった痛みがとたんに酷くなったような気がする。

 声の主は、もう敵のほうに向き直っているらしい。
 「お前の正体を聞きだすのに手間取ったぞ、喪花仙。オレは天界の御大花将。花精に対する狼藉、許し難い。その上、よくもこんな事を」
 「なんと・・・・・・」
 妖しい姿は、急に飛び込んできた姿にあっけにとられたように動きを止めていたが、やがて喉をそらして笑い始めた。

 「飛んで火にいるなんとやら。これはこれは、天界一の名高い封印の皇子ではないか。一生咲くことを許されぬ、哀れな出来損ないではないか。せっかく花の帝を母に生まれてきたのに、生涯つぼみのままで立ち枯れていく、生まれ損ないが。おまけに考えなしで粗暴で、華恭苑の持て余し者。花の風上にも置けないような無様な輩が、花の皇子とはおそれいる。どうせ咲けない日陰の身なら、ここで私に食われた方が、なんぼか幸せというものよ。のう、春のお方もそう思うであろう。こやつの苦しみの蜜は、どんなに甘美だろう」
 能面のような表情が一変して、赤黒い目が邪な欲望にぎらぎらと輝いて見える。両手を大きくかざして素早く印を結ぶかのように見えた。

 地面に倒れてかろうじて上半身を壁にもたれて起きあがっていた東雲も、その悪夢に感応した。意識が渦巻きに巻き込まれたように揺さぶられる。いろいろな光景の断片が目の前に浮かんでは消えた。やりきれない感情が自分のもののように感じられ、それに流されそうになる。花の帝の怒りと失望を感じる苦しみも。受け止めきれない風の力を注ぎ込まれる時の苦痛と恐怖も。一生封印された身だと陰で嘲笑う賢臣たちの噂話を立ち聞きしたときの悔しさも。何よりも、決して花開くことのない無惨な我が身への絶望を。
 東雲はぐったりと壁に寄りかかりながら、霞む目で蕾を探した。
(苦しい。胸が切り裂かれるように痛い。これは、ほんとうに蕾の想い? それともあの喪花仙とやらが見せる妖しい悪夢の幻術なのか)

 突然、「その程度か、喪花仙」と晴れやかな声がした。
「その程度でオレを操れると思っていたのか。慮外者め」
「なんと」と怒りに満ちた声がした。洞窟のなかを衣を翻して飛び交う花仙が蕾の攻撃を避けて身をかわす。長い爪を振り回して蕾の柔らかな若草色のセーターを切り裂こうとしている。めまぐるしく位置が入れ替わる中、蕾の動きは舞のように美しいが、あまりにもか細く身軽に過ぎる。
(蕾、蕾は得物をもっていない。露冠は)と東雲が心配で思わず身を起こしたとき、細い木の枝をかざして、蕾が相手の懐に飛び込むように接近した。気味の悪い悲鳴が洞窟に響き、眉間に突き立てられた細い枝が喪花仙とともにぼろぼろに砕け散って空中に消えていくのが、東雲の目におぼろに霞んで見えた。
(桜の、枝だ。もう花芽がついていたな。冬の間中力を蓄え、春を待つ健やかな枝だったな・・・・・・)

「おい、大丈夫か」
返事がないのに焦れて、「東雲、東雲」と呼びながら、蕾が東雲を揺り起こした。
「あ、ああ。まあ、なんとか大丈夫だよ」
「訳もわからんのに無謀に飛び込んできおって」
「君こそ、遅いじゃないかね」と痛みをこらえて東雲が軽口をたたく。
「あ、ああ。調べても調べてもあの花仙があまりひっそりと隠れていたのでな。百様花督のもとを訪ねて、喪花仙のことを聞きにいったのだ」
 うっとうめく東雲の顔をのぞき込んで、蕾が慌てた。
「おい、話は後だ。急いで聖仙郷に戻るぞ」
「いいから、蕾。朝日、を、受け、れば、治る、から」
 切れ切れに言葉を継ぐ東雲の顔を、蕾は近々とのぞき込んだ。大きな金茶色の瞳が、心配のあまりくるめいて見える。 
(まつげが長いなぁ。ほんとに綺麗だ、蕾は。こんなに心配してくれるなら、多少痛くても、まあいいや、って気もしてくるくらい)
 思わず顔がほころんでいたのだろうか。
「呑気に笑っている場合か」と怒った声がする。
「・・・・・・外に出たい。夜明け、まで、待って、蕾。正直、今動く、自信が、ない」
 不本意ながら、ぎこちない言い方になった。傷だけならまだしも、錆びた鉄の毒が身を蝕んで、発熱して身が熱い。

 蕾は無言で東雲の身体をすくい上げ、肩の上に担ぎ上げた。ゆらり、と視界が歪んだような気がしたが、あの花仙の結界からでたのだろう。次に気づいたのは、厳しい寒さの夜明け前の丘だった。大きな桜の幹の根元に、二人してそっと座り込む。
「寒くないのか」
「じゃあ、もっとこっちへお寄り、蕾」
 ちゃっかり蕾の肩を抱くようにすると、今日に限ってあんまり嫌がらない。
(やっぱり怪我してると得かもしれないな)と、痛みに顔をしかめながらも思わず頬が緩んでしまう。怪我をしていない方の肩口にそっと頭を載せて蕾はぴったりと身を寄せていた。その小さな身体が暖かくその花気が柔らかに馨るようだった。
 「蕾。ありがとう」
「・・・・・・喪花仙も、下界にしかいない、魔性の花闇の花仙なんだそうだ。葬花仙のような。人間の心は不安定で、満開の花を尊び愛でつつ、その前の蕾をも愛する。未来を待つ姿をその希望ゆえに愛するくせに、汚れなき柔らかさゆえにそれを蹂躙したい、咲く前に手折って滅茶滅茶に壊したいという嗜虐の心を持て余すのだそうだ。その闇から生まれた花仙だという」
「そうなのかい」と東雲はぽつりと呟いた。
 汚れなき柔らかさを尊びつつ蹂躙したい、その無垢な純情ゆえにその身に我が力を刻み込んでしまいたいという背徳。人ごとではないおそろしい誘惑を背筋にぞくりと感じた東雲は、自分を恥じて思わず顔を背けた。

「東雲」
「なんだい」
「オレは喪花仙が楽しみにしていたような、咲けない苦しみなぞ知らん」
 えっと蕾の方に視線を向ける。形の良い頭のつむじが見えた。今は自分の胸に頬を寄せるようにして、腕もそっと背中に廻して、抱きついてくれている。どうやらその小さな身体で、寒さを必死で防いでくれようとしているらしい。
「お前、身体が冷え切っているくせに熱がある。やはり早く天界に戻った方が」と言いかけた蕾の柔らかなくちびるをそっと指で止めた。
 「蕾。ごらん。かぎろひだよ」

 丘から目の当たりにする山の稜線がうっすらと青く浮かび上がる。その上の空が軽く淡く透き通ってゆく。その空に揺らめくような光があらわれた。藍色から青。たゆたう光が宇宙の呼吸のように動いて見える。やがて光が緑の色を帯び、暖かな黄色の色味を混ぜる。それからやがて、暖かな橙色が空全体に風に揺れるカーテンのようにゆらめいた。風もないのに、橙色の光の帯だけが揺らいで、蒼穹が今にも歪みそうに見える。眺め上げている身も揺るぎそうな不安定な気持になる、美しさだった。
 
「ああ、かぎろひだ」

 どちらともなくそう言い合うと、顔を挙げた蕾と顔を伏せた東雲の、視線がゆっくりとぶつかった。ほんの一瞬ためらって、そっと舞い降りるくちびると待ち受けるくちびるとが、重なった。どちらが一層震えていたかは、本人達にも分からなかった。どうして震えていたかも。
 ぎこちなくくちびるを離して、ほっと溜息をつきあう。お互いあんまりぎこちなくて、なんだかおかしくなって、ちょっと笑いあった。
「・・・・・・東雲。かぎろひは、お前みたいだな」
「どうして?」
「厳冬の中にあっても全てを暖かく包み込み、春は必ずやって来るのだと教えてくれる・・・・・・」
 蕾はそういってまたそっと頬を胸に落とした。ごそごそと今度は腕を上着のしたに伸ばして、制服のシャツごと背中を抱くようにする。いっそう身体が触れあう気がして、東雲は思わず頬が熱くなった。
(いざとなったら、やっぱり蕾の方がコワイモノ知らずだなぁ)
それならと、自分もまたその細い指を、若草色のカシミアのセーターのしたに滑らせて、その下の絹のシャツのなめらかさごと、その身体の暖かさを楽しんだ。かじかんだ指は冷たかろうに、蕾はそっと身を竦ませただけで、文句は聞こえなかった。微かに息をのんだ音が聞こえた気がしたが。そんな風に、はなはだぶしつけに触れあっていても、この日の御大花将殿は、大変ききわけがよかった。ずっと背中を撫でていると、ほっとくちびるを開いて、小さな吐息が滑り出たくらいに。
 
 やがてかぎろひの光の饗宴も終わり、空全体が明るんでくる。
「ねぇ、いまから曙光が燃えるよ」
「そうだな」
 どこか茫然と東雲を見上げる顔に、我慢しきれずにもう一度、くちびるでふれる。頬も額もくちびるも。小鳥の羽毛のように、軽く。
(何もかも愛しく思えるけれど、なぜこんなに今日は大人しいの、蕾?)

 「オレだって、春くらい知っている。咲こうが咲くまいが」と、目を伏せてぽつりと蕾が呟いた。長いまつげが翳りをつくる。
「お前が側にいて、春が分からないはずがあるか」
東雲は柔らかく笑んだ。
「私だってねぇ、蕾。君に春を告げないではいられないよ。花の中の花、花よりもなお花の君に」
「じゃあ、今年もまた春を所望する。極上の春を」
「ああ、もちろん約束しよう」

 空は刻一刻と明るみ、山の稜線が金色に燃えた。やがて訪れる清らかな明るい陽差しの中では、こんな風に抱き合ってはいられないだろう。なごり惜しく、淋しく、もう一度だけ、東雲は口づけした。抱きしめた蕾から「ここまでにしろ」という声が聞こえたような気がした。抱きしめたまま顔は見えないが、肩のあたりで「いいかげんにしないと、離れられんだろうが」と声がする。
 「君もゆうねぇ」と小さく笑って、もう一度ぎゅっと抱きしめてから東雲は立ち上がった。

 「そう言えば、傷はどうだ」と、隣に立った蕾がすっかりいつもの調子で訊ねた。
「なんだか、すっかり良いよ。かぎろひには、特別な治癒の力があったと見えるね。解毒もしたみたいだし、もうすっかり大丈夫のようだ」
「だいたい、お前はなんでここに居たんだ」
「今更だねぇ」と笑って東雲が、「透がドングリのせいで酷い風邪を引いたからだよ」と手短に説明する。
「そうか。じゃ、戻るぞ。透が心細がっていよう」といいざま、蕾は東雲の方を振り返らずに飛び立った。
「あ、ちょっと待っておくれ。怪我人なのに置いてけぼりは酷いよ」と慌てて浮かび上がっては、追いかける。
「あんなこと、さんざんしといて、怪我人が聞いて呆れる」と振り向きもせずに蕾が言いはなった。
(だって、君だってそうしたかったくせに)と言うのは、やめた。髪が吹き乱されて、ほんのり紅潮した頬が見えたから。
 (まあ、いいか。本当に心配かけたんだな、あんなにガードが緩むなんて。悪かった)と心の中で幸せに笑って、「ちょっと待っておくれよ、蕾」とその背中にもう一度声をかける。空はますます晴れやかに澄みわたり、大気は朝の光に浄められて、眩しいくらいに明るい朝の始まりだった。
 蕾を追いかけようと飛び出して、ふと思い付いてもう一度森の入り口に降り立つ。さっき飛び立ってきた丘を見上げる形で、守護の杖を呼んだ。
(すまない。一つ貰うよ)とまだ寝て居るであろう花精に声をかけて、気の早い蒲公英の緑のロゼットの株を、そっと抜き取った。それを左手に持ち杖を右手に持ち、春を寿ぐ祝詞を唱える。こつん、と軽く杖で地面を打つと、目に見えぬ柔らかな波動が、大地を波打たせたように思われた。吹き渡る風が、一気に緑の気配を帯びる。
(これで、新しく春の夢を見ながら、もう少し花精達は幸せに眠れるだろう)
気がつくと手の中の蒲公英に、可愛らしい黄色い花が開いている。
(これは、透に持って帰ってやろうかな)

「お、今朝、N県でかぎろひが見られたんだってよ。気象台の観測によると、だとさ」
朝ご飯の食卓でニュースを見て、透が陽気な声をかけた。
 「ああ、そうだな」と答える蕾は、赤くなった頬を隠すために、あさっての方を向いた。読んでもいないプロレス雑誌の頁を、ばさばさとめくる。
「なんだよ、蕾。知ってんのかよ」
「ああ、そうだね」と、今度は東雲が笑う。とろけそうな優しい微笑みで、そっぽをむいた蕾の頑なな背中を、黙って微笑んで見つめている。
 (あ~も~、視線で撫でまわすってのは、このことかいっ)
 あきれかえった透が、ちょっと淋しく思って「冬休みもぐずぐずしてるうちに終わっちまう。夕姫の体調が良かったら、今日か明日こそ初詣に行こうぜ」と声をかけた。
「それも、良い考えだね」と東雲は相変わらず上機嫌で、上の空で、透に相づちをうった。してみると、透が今回の一番の被害者だったのだろうか。

 一番の被害者は、丘の上で優しい溜息をついた。
(あんなに春そのもののような気をあびては、おちおち眠ってもいられません。今年の春を告げる開花一番手を仰せつかりそうですわね。まだ寒いのに、とんだことですわ)
 ほんのりと上気した頬の持ち主は、あの時の東雲と蕾に寄りかかられていた桜の花精だった。思い出しても、あの二人の甘い交感に頬が火照る。
 ふるふると頭を振って、まだ風は冷たいけれど柔らかに潤んだ春の空に、すい、と伸びをした。今日は一日、日中は暖かくなるらしい。
 (がんばって、私も美しく春を迎えなくては)
 丘の上から感じられる確かな季節の歩みに、桜の花精は幸せそうに、うっとりと微笑んだ。