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万華鏡

万華鏡

 それは、ほんの一瞬、瞬きを一度しただけの時間にすぎなかった・・・。


 父親代わりでもある五番目の兄に連れられ、花恭苑を訪れたのは、この日で二度目だった。桜の花びらがゆるゆると舞うここ花恭苑は錦仙殿、美しく可憐な花仙たちが集うこの麗しの地で、運命的な、いや、生まれる前から定められていた出会いに、彼は呆然としていた。
 いつだったか、一度だけ、それもほんの少しだけ垣間見た花の皇女公(ひめぎみ)の横顔に一瞬にして心を奪われたあの日、言いしれぬものが自分の心を支配するのを感じた。その時の皇女が今、自分のすぐ目の前に居るのである。白い肌、優しい風に揺れる柔らかそうな絹のような長い髪、うっすらと赤く染まる小さな唇。何より、先ほどから自分をまっすぐに見据える、少し怒ったような大きな瞳が印象的だった。
 今まで沢山の皇女たちを見たが、幼いながらもこれ程に凛々しく美しい皇女を見たことがあっただろうか。それは容姿だけではない、彼女のまとう何かが、発する何かが、あの日以来彼の心を捕らえて離さなかった。その後、何度か文を送ったのだが、不躾と思われたのか、返事が来ることはなかった。面識もない相手から貰う文に返事など書けるわけもないか、と半ば諦めかけ、しかし心のどこかで諦めきれずにいた矢先の出来事だった。
 突然の再会に彼は動揺し、そして歓喜していた。それ故周りの話など全く耳に入っておらず、目も心も花の皇女に釘付けになっていた。
「・・・め、・・東雲、聞いておるのか?」
 兄、上条宗司五百重の呼びかけに、ハッと我に返った東雲は、初めて目線を花の皇女から外した。その時だった。
「私は絶対に認めませぬ!そんな勝手なこと、絶対に認めませぬ!」
 和やかに進んでいると思われた話の中、皇女の怒りが頂点に達したのか、彼女は立ち上がると一気にまくし立てた。見かけからは想像できない激しさに、東雲は一瞬たじろぎ、きょとんとした。この皇女は何をこんなに怒っているのだろう、と。
「蕾、落ち着きなさい」
 蕾の横で、何にも動じない、ここ、花恭苑の主にして皇女の母でもある錦花仙帝が静かに叱咤した。
「これが落ち着いていられますか!なぜ私がこの者の許嫁だなどと・・・!」
 蕾は力一杯東雲を指さした。
「蕾、神扇山の皇子様に失礼ですよ」
 錦花仙帝はほんの少し、目を細めた。
「関係ありません!私が・・・一度しか会ったことのないこの者と、なぜ・・・母上、私は絶対に納得できませぬ!」
 再びまくし立てると、背後にあった牡丹の花模様の金屏風を穴の空くほどに蹴り倒した。
『なるほど、この皇女は一度しか会ったことのない私・・・ん?皇女は私のことを知っていたの?離れたところから見ていた私に気づいてた?え?まさか!それにこの皇女が許嫁?私の・・・!?』
 東雲がぐるぐると考えを巡らせている間にも、蕾はダダをこねる子供のように暴れ出し、ついには妙香花仙が蕾をその場から連れ出す始末となった。
「ふぅ、あれには困ったものです」
 やれやれ、と錦花仙帝はため息をついた。
「いやいや、姫皇女さまのおっしゃることもごもっともでございます。いきなり目通りさせられた初対面の相手が実は許嫁だなどと、反発するのも無理はありませぬ。この第八皇子はまんざらでもない様子ではありますが。これは少し時間をかけてゆっくりと見守るしかございませんでしょう」
 五百重はチラと弟皇子の方を見た。頬はうっすらと上気し、見開かれた瞳には、驚きと喜びの両方が同居していた。それを確認すると五百重は錦花仙帝に笑みを返した。

 そんなことがあって以来、東雲は前にもまして熱のこもった文を毎日蕾に、しかも朝夕届けさせた。しかしというか、やはりというか、返事は一度も来ることはなかった。
 一向に来ない返事に、一体自分の何がいけないのか、と思案する東雲に朗報が届いたのは再会から数十日経ってからのことだった。本日午後、蕾が東雲を訪ね、やって来るというのだ。慌てた東雲は女の子が好みそうなお茶や御菓子を急いで用意し、蕾の到着を今か今かと待った。そして待ちに待った彼の人が自室に通されたときの東雲の喜びようと言ったらまさにこの世の春を謳歌したという感であった。しかし蕾はといえば、錦泉殿で会った時と同じく、仏頂面で、東雲を睨みつけ、いかにも嫌々連れてこられましたと言わんばかりの様子だった。しかし東雲にとってはそんなことはどうでも良いことだった。
「母上が行け行けとあまりにもうるさいので来てやった。茶を飲んだらすぐに帰る」
 なんとも素っ気ない挨拶だったが、東雲は座るよう椅子を勧めた。
 どっかと椅子に座る姿は花の皇女にはあるまじき動作に思われた。美しい金糸銀糸の衣も泣いているような気にさえなった。肘掛けに肘を乗せ、その上に小さな白い顔を乗せ、そっぽを向く蕾に、東雲は、一気にお茶を飲み干し、「帰る」と言われたらどうしようかと内心少しドキドキしながらお茶と御菓子を勧めた。
「あの・・・私の文は読んでいただいていますか?」
 少しの沈黙の後、東雲はおずおずと切り出した。
「一応は目を通したが、難しすぎてよくわからなかった」
 チラと目線を東雲に向け、すぐそらした。
 再び沈黙が続いた。いざ面と向かって話をするとなると、何を話して良いのか、幼い東雲にはわからなかった。文なら毎日何通でも書けたものを。
「・・・これ、全部お前の本なのか?」
 ふと蕾が一方の壁一面の書棚を見て尋ねた。そこには百冊を越えるだろう、分厚い書巻がきれいに並べられていた。
「あ、ああ、そうです。もう全部読んでしまいましたけどね」
 ほんの少し自分に興味を示してくれたような気がした東雲は、顔をほころばせて答えた。
「ふ~ん」
 と言いながら席を立つと、書巻のひとつを手に取り開いてみた。一目見ただけで眉間にしわを寄せ、押し込むように乱暴に棚に戻したものだからいくつかの書巻が雪崩を起こし、床にバタバタと音を立てて落ちた。
「ああ、大切な書巻が」
 慌てて拾い集め、棚に戻す東雲を蕾はほんの少し、そう、ごくごくほんの少し申し訳なさそうに眺めた。
「お前、いつもこんな難しいものを読んでいるのか?私だったら頭がおかしくなるぞ」
 蕾の言葉には少しの同情が含まれていた。 
「ここにあるものはそれほど難しいものではありませんよ。私と同い年の皇女にも十分読めるものです。おもしろいものもいくつかあります。よろしかったらお貸ししましょうか?」
 勉学熱心な東雲にとって、そんな蕾の言葉はおかまいなく、これ幸いと書巻を選びはじめた。が、
「いらん!」
 と即答された。端から見れば書巻の貸し借りでまずは仲良く、という算段が手に取るようにわかるのだが、当の皇女はそんなことは微塵も察してはいないようだった。
 蕾は席に戻ると、書巻を片づける東雲の背に視線を向けつつ、小さな籠に盛られた色とりどりの綿雲を丸めたような小さな御菓子をひとつ、小さな口の中に収めた。ふんわりと甘い味が口中に広がった。
「で、お前はどう思っているのだ?」
 何の脈絡もなく尋ねられ、東雲は「え?」と振り返った。足を軽く組み、机に頬杖をつきながら、もうひとつ御菓子を口に放り込みながらこちらをじっと見ている蕾がいた。何か問いたげな瞳がとても愛らしく、幼いながらにも漂う花の色香は艶めかしく、東雲の胸を痛くした。
「どうって、何をでしょうか?」
 書巻を片づけ終わると、東雲は蕾の対面の席に腰を下ろした。
「何をって、こないだのことだ。・・・その、・・・お前と私が・・・あれだってこと!」
 蕾は少し照れくさそうに東雲から目線をそらして意味ありげに答えた。
「あれ?・・・ああ、私と皇女が生まれながらに許嫁と定められていたことですか?」
 許嫁、という単語に過敏になっているのか、蕾の頬がみるみる赤く染まった。それを見た東雲は、クスッと小さく笑い答えた。
「私は・・・良かったと思っています」
 東雲は静かに笑みを浮かべたまま当然のように答えた。
「良かった?それはどういう意味だ?初めて会った者を許嫁だと言われて、お前は、はいそうですかと納得するのか!?」
 不思議そうに蕾は問い返した。
「他の皇女ならそう思ったかもしれません。それに、皇女にお会いしたのは初めてではありません。前に一度、私は皇女のご尊顔を拝したことかあるのですよ。そう、離れた所から見ていたのできっと皇女は気づかれていないと思っていました。だけど先日花恭苑に赴きました際、皇女の何気ない言葉を聞いて皇女も私に気づい・・・」
「うわーーーーーーっ!!」
 言い終わらない内に、突然蕾が奇声を発し、勢いよく立ち上がった。その拍子に大きな音を立て椅子が倒れ、東雲はぎょっとした。
 ぜーはーぜーはーと真っ赤になりながら肩で大きく息をし、少し落ち着くと、東雲を強く睨みつけながら足先で器用に格子状になった椅子の背もたれ部分を引っかけ、起こすと座り直した。
 全く皇女らしからぬ動作に、これ以上何か言うと殴られるかも、という危惧に見舞われながらも、東雲はそんな蕾から目が離せなくなっていた。そして異常なまでの慌てぶりにこの方はもしや・・・と、東雲に仄かな期待を抱かせた花の皇女公は、テーブルに置かれたままの少し冷めたお茶を手に取るとぐいっと飲み干し、茶碗をドンと叩きつけるように置き「帰る!」と席を立った。
「あ、皇女!」
 その後を慌てて東雲が追いかけた。
「次はいつお会いできますか?」
 すがるような、ほんの少し嬉しそうな笑みを浮かべる東雲に、何だか心の中を見透かされてしまったように感じた蕾は、再び顔を赤らめて目線をはずした。
「剣の稽古で忙しくて、そんな暇などない!」
「・・・は?あ、では文の返事はいただけますか?」
「だーかーら、剣の稽古で忙しいと言っておろーが!それにあんな恥ずかしいもの書けるか!」
 蕾に怒鳴られ、戸惑う東雲になぜか蕾は慌てて付け足した。
「・・・読むだけなら読んでやっても良いぞ、お前の文・・・」
 普通そんな自分勝手なことを言われると、相手は憤慨するものだ。しかし東雲は喜ばずにはいられなかった。そして去り際、蕾が残した台詞は東雲を更に喜びの頂点へと押し上げたのだった。
「私のことは皇女とは呼ぶな。蕾、と名で呼べ。私もお前のことを東雲と呼ぶから」
 蕾は乗ってきた輿もお付きの者もお構いなしにすぃと空に舞い上がると、一人花恭苑へと飛び去った。その後ろ姿が見えなくなるまで東雲は幻を追うような眼差しで見つめ続けていた。
『確かに皇女は私のことに気づいていた。私だけが皇女を見ていたのではなかったのだ』 そのことを辛うじて知ることができ、東雲の胸は喜びでいっぱいになった。
「・・・しかし、剣の稽古ですって!?花の皇女公が!?」
 東雲はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。

 何度目かの春がやってきても、東雲は花の皇女に毎日欠かさず文を送り続けていた。もちろん返事は一度たりとも帰って来たことはない。しかし錦花仙帝の計らいで、十日に二度、蕾は東雲の元を訪れさせられていた。が、もちろん気が向かない時はすっぽかすこともあった。二人が寄り添っている(ように見える)時、周りからはさぞやお似合いの二人に見えたことだろう。森の皇子と花の皇女、二人が並ぶとそれはそれは美しい光景が広がるように見えた。しかしそんな光景も幻だったのか、と思うほどに時折東雲に対し、殴る蹴るを繰り返す花の皇女を見ると、「何故森の皇子さまがあのような皇女と・・・」と同情を買ったりもする。しかし東雲の真の心情を知るものは誰もいなかった。

 花恭苑内にある修練上では沢山の花将たちが己の技を磨くため、日々稽古に励んでいた。その中でもひときわ鮮やかな一角があった。御大花将を相手に、女だてらに見事な剣さばきを見せ、その動きは舞の如く、動作のひとつひとつに芳しい花気が尾を引き、周りの者たちを魅了していた。同じ年頃の武将、いや、並の武将であっては彼女の右に出る者はいなかっただろう。しかし、年老いたとはいえ、現御大花将にはかなわなかった。わずかなスキを衝かれ、蕾は剣を弾かれてしまった。
「くっ・・・」
 悔しそうに御大花将こと素白将軍を振り返り、キッと睨みつけた。
「まだまだ甘うござるな」
 素白将軍は冷たく吐き捨てた。しかしその表情には蕾が何者であれ、容赦のない厳しさがあった。
「もう一度!」
 弾かれた剣を再び手にすると、蕾は花気をみなぎらせ、構えた。
「いやいや、何度やっても同じ事。それに姫皇女様にはご来客のご様子、今日はこの辺でおいて置かれよ」
 それでも皇女に対する礼を軽く取ると、素白将軍は踵を返した。
「客だと?」
 振り返ると修練上の端に、心配そうな眼差しの東雲の姿があった。

「で、今日は何の用だ?」
 蕾の自室に通された東雲は、蕾が椅子を勧めてくれないので、窓際に設えられた長椅子に勝手に腰を下ろした。それも当然である。剣の稽古を邪魔されたのだから。
 蕾が頭のてっぺんで髪を一つに結わえていた赤い紐をほどくと、絹糸の髪がサラサラと、東雲の目の前で誘っているかのように何度か揺れた。ふわりと漂う蕾の香りが、あっという間に東雲の思考能力を奪い、蕾に軽く頬を叩かれるまで、我を失っていた。
「おい、寝ているのか?」
 眼前にずいと現れた蕾のアップに驚き、少し顔を逸らすと慌てて両肩を押さえ、軽く押し戻した。いや、本当は引き寄せたかったのだが、後のことを考えると、それはできなかった。
「おかしな奴だ。何か用があって来たのだろう?」
 蕾は当たり前のように東雲の横に腰を下ろした。
「いや、特にこれと言って用はないんだけど」
 稽古を終え、上気した体から発せられる蕾の花気は特に芳しく、東雲は平静を装うのに必死だった。
「はぁ?では何をしに来たのだ!?」
「許嫁どののお顔を拝しに・・・」
 東雲は蕾の方を見て小さく微笑んだ。
「ば、ばばばか者!」
 未だ「許嫁」という単語に慣れない蕾は、真っ赤になりながら、思わず両手で思い切り東雲を突き飛ばしていた。あまりの勢いに椅子からひっくり返った東雲はしこたま打ち付けた尾てい骨をさすりながら、再び蕾の隣に腰掛けた。
 再会のあの日より、いくつかの春を迎え、東雲は東皇使の位を戴く聡明で立派な青年に成長していた。蕾はというと、あの日以来変わらず・・・そう、ある時を境に成長を止められ、あの時と同じ麗しくも美しい少女のままの姿だった。
 蕾は花の帝、錦花仙帝の皇女であると同時に風の覇王、玉風大帝を父に持っていた。それ故見た目とは裏腹に、内に凄まじい能力(ちから)を秘め、次第にふくれあがっていく能力に身も心も圧迫され、体に異変をきたしはじめていた。それが暴発したことが一度だけあった。さいわい蕾の身体にも花恭苑にも大事はなかったのだが、それ以来、ご神託に従い、蕾の能力は年齢を封印することで収められた。それ故蕾は今も少女の姿のまま、東雲の前にいた。
 そんな事実を知った東雲は、翌日蕾のもとに来ていた。この美しい花が、これから咲こうという時にこんな残酷な運命を与えるとは・・・。ぐったりと寝台に横たわる蕾を見つめ、どうしようもない思いを持て余し、東雲はただそっと蕾の手を握りしめた。
「蕾・・・」
 再会の日より、二人の距離は確かに縮まっていた。蕾は東雲をただの幼馴染み扱いしたが、もうお互い何の違和感もなく行き来しては時を重ねてきた。周りから見ればさぞ仲むつまじい恋人同士に見えただろう。蕾に二~三発殴られる東雲の姿を見る者ももちろんいた。確かに「許嫁」よりも「幼馴染み」という言葉がぴったりな二人だった。言いたいことを言い合い、はぐらかす蕾にカマをかけてみたり、愛しいと思う反面、少しいじめてみたり、その仕返しに数発殴られてみたり、そんな日常が自然になってきた二人であった。
 東皇使という位を望んだのも、そんな蕾のために、蕾だけのために春をもたらしたい、と望む一心からであった、といっても過言ではなかった。しかし同時にそれは、誰も知ることのない事実でもあった。
「用がなければ来てはいけないのかね?私たちは誰もが認める許嫁同士なのだよ?許嫁どののご機嫌を伺いに来て何がいけないのかね」
「許嫁、許嫁と何度も言うな!お前など幼馴染みで十分だ!」
 蕾が嫌がるのを知っていて、東雲はわざと「許嫁」を連呼した。その結果どうなるかはもちろん承知の上だ。
「相変わらずつれないね、蕾。文は読むのが面倒になったから直接来いと言ったのは君なんだよ」
 と額に張り手の後を赤々と残しながら東雲は付け足した。
「そんな昔の話、憶えておらんわ!」
「やれやれ、どうやらお茶もご馳走してもらえそうにないから、帰るとしますか」
 と席を立ったときだった。
「待て」
 少し怒った口調で蕾は、東雲の上着の裾をひっぱり、強引に座らせた。
「な、何?」
『まさか、もう少しそばに居てくれ、なんて言うんじゃ・・・』
 あらぬ妄想を抱きながら、いつになく神妙な面もちの蕾を見て、やっぱりそれはないか、と苦笑した。
「は、話がある」
 蕾は少し伏せ目がちに、しかしその声には真剣さがこもっていた。
「・・・私は花将になりたいと思っている。だが母上が反対するのだ」
 どんな話かと思えば、意外にも、意外な話だった。いや、蕾ならあり得ないことはない。「突然何を言い出すのかと思えば、花将だって!?そ、そりゃあ当たり前だよ。君は次期錦花仙帝になる身、確かに過去には何人かの皇女花将もいたよ、だけど母親としてはそんな危険な部署に君を置きたくはないんだろう。私だって君にそんな危険なお役目についてほしくはないよ」
 東雲は少し呆れたように、しかし当然のこととばかりに答えた。
「だけど私は・・・私には・・・」
 蕾はうつむいてしまった。
「何か思い詰めているのかい?」
 穏やかな声で問い返されると、蕾の顔はうっすらと赤みを帯びた。
「ちがう」
蕾は慌てて顔を逸らした。
「言ってごらん、全部聞いてあげるから」
 蕾はそっぽを向いたままだった。このおせっかいな幼馴染みのこうゆうところが蕾は苦手だった。こちらが何を言おうが、何をしようが、彼はいつも優しかった。時々小言を言うけれど、それはみな自分を思ってのことだということもわかっていた。この果てしない優しさは緑仙ゆえなのか、それとも自分に対してだけなのか、計り知れず、いつも戸惑い、ついつい殴る蹴るの暴行を加えてしまう。それが気持ちとは裏腹なものであることくらい自分でもよくわかっていた。だけど素直になれない自分が腹立たしく、またこの優しさに身を任せてみたいという衝動に駆られる自分にも腹を立て、その結果ついつい手と足が出てしまうのだった。
「たのむ、お前は昔から母上には気に入られていた。お前が母上にひとこと言ってくれれば、きっと母上も納得してくれるはずだ」
「まあ、そりゃそうだろうけど、理由を言ってくれなきゃ説得もなにもできたもんじゃないよ」
 そう言われて蕾はぐっとのどを詰まらせた。しかし黙っているわけにもいかず、渋々重たい口を開いたのだった。
「私は一生を花の皇女で終わらせたくはない。ただ護られているだけの皇女よりも、護る側の花将でありたいと小さい頃から思っていた。ここには護りたいものがたくさんある。私はそのためにあるとさえ思っている」
「護りたいもの?」
 護りたいのは私も同じ、君をあえて危険な目になんてあわせたくはない。だけど・・・。「だけど、君が剣の稽古でアザや傷を作るたびに飛んでくる私の身にもなってみておくれ。君は私に今以上の心配をかける気かい?君が怪我をするたびどんなに心の縮む思いをしたことか」
 東雲は素直な気持ちを伝えようとしていた。
「傷の手当てなど頼んだ覚えはない!それに私が何をしようがお前には関係ない!」
 これが人にものを頼む態度か?と自ら思いながらも、蕾は立ち上がって怒鳴った。
「随分な言いようだね。じゃあなぜ私に相談なんかするんだね。蕾、君には私の気持ちは未だに伝わっていないのかい?だったら悲しいよ。だけどね蕾、私は君に危険な目に遭ってほしくはないんだ。その体に傷をつけるなんて、そんな・・・花将になどなって万が一君の身になにかあったら私は・・・!」
 東雲も立ち上がり、蕾のことをいつになく強い眼差しで見下ろした。蕾の瞳は何の迷いもなく、東雲を睨み返していた。
「蕾・・・!」
 その真っ直ぐな瞳を見ていると、東雲はたまらなくなり、無意識のうちに蕾の体を引き寄せ、抱きしめていた。
「!?」
 突然のことに驚きながらも、蕾はなぜか抵抗することができなかった。
 蕾が怪我をしたと聞いたら誰よりも早く駆けつけ、治療とともに小言の嵐をなげつけた。しかしその裏には溢れんばかりの愛情とさり気ない気遣いがあった。自分のことを心から心配してくれていることが手に取るようにわかり、だけど素直になれず、いつもその手を振りほどいてきた。それでも彼は優しかった・・・。生まれる前より許嫁と定められた幼馴染み、彼のいつまでも変わらぬ真っ直ぐな心は誰の目から見ても明らかだった。
「東雲・・・」
 武道のたしなみなどなかった彼の蕾を抱きしめる腕は意外と力強かった。森林の大気に包まれたような心地よさに、つい気がゆるんでしまったのか、蕾は一瞬我を忘れていた。
「蕾さま、お茶をお持ちしま・・・あ」
 静かだった森に木の実が一つ、落ちたような感覚だった。盆に茶碗を乗せた妙香花仙が部屋の入り口に立っていた。
「こ、これは失礼を・・・」
 と少し頬を赤らめて退室しようとした時だった。
「はなせ・・・」
 東雲の胸元で蕾が呟いた。
「え?」
「はなせと言っているー!」
 東雲の腕を大きく振り払うと、蕾の右が東雲の左頬に炸裂した。その拍子に後方の壁に叩きつけられた。そして蕾はそのまま窓を乗り越え、どこへともなく飛び去ってしまった。
「東皇使さま!?」
 掲げていた盆をひっくり返し、慌てて薫が東雲に駆け寄った。
「一体どうして・・・」
 訳がわからず東雲は呆然とした。

 蕾の宮から少し離れた合歓の花が咲き誇る丘陵に蕾はいた。蕾がどこにいようと、東雲には探し出す自信はあった。彼女のまとう芳しい花気がいつも東雲を導いてくれるからだ。
蕾は膝を抱え、その膝の間に顔をすっぽりと埋め、泣いているように見えた。
「つ、蕾・・・?」
 恐る恐る近づいてきた東雲を横目でチラと一瞥した。どうやら泣いているわけではなさそうだった。
「蕾、急にどうしたんだい、私はまた何か君を怒らせるような事をしたのかい?」
 少し腫れてきた左の頬を薫が用意してくれた濡れた布で押さえながら、聞いてみた。しかし返事はなかった。
「蕾・・・」
 かなり落ち込んでいるように思えた東雲は、蕾の肩にそっと手を置いた。とたんに強く払われた。
「薫に見られた・・・」
 蕾がボソッと呟いた。
「え?」
「あんなところを薫に見られた!」
『あんなところ・・・?まさか私が蕾を抱きしめたところ?薫どのに・・・?』
 東雲はそこで初めて気が付いた。
「蕾・・・君、もしかして薫どののことを・・・?」
 蕾は顔を真っ赤にさせた。
「ご、ごめんよ蕾・・・何も知らなくて・・・私は・・・」
 バツが悪そうに東雲は素直に謝った。しかしどこかやるせない。
「もういい!!」
 それ以上よけいなことを言うな、とばかりに蕾は怒鳴った。
「だけど蕾・・・」
 何か言わなければ、と必死に食いつこうとするが、拳を握りしめ構えられると東雲は両の手のひらをハタハタとふった。
「もう・・・いいんだ」
 今度は小さく、ため息混じりに呟いた。
 薫は蕾の教育係りであり、物心ついたころから彼に育てられたも同然だった。全ての花の香りを司る彼はまさに花の中の花だった。そしてたおやかで優しさと美しさを兼ねそろえた彼に恋しない仙女など居はしなかった。蕾も例外になく、薫を慕っていたに違いなかった。しかし、その薫にあんなところを見られ、ショックを受けてしまったようだった。
『ああ、私は君を傷つけてしまったんだね。剣で受けた傷は君が嫌がってもいつも私が癒してきた。だけど私が与えてしまった心の傷は・・・私に癒させて・・・癒せることができるのだろうか・・・』
 そんなことを思って落ち込んでいると、体が自然に動き、再び蕾を抱きしめていた。次の瞬間、「やば、殴られる!」と、身の縮まる思いがしたが、パンチは飛んでは来なかった。
「私は・・・私の大切なものを護りたいんだ。この体に秘められた能力がそのためにあるのなら、それで愛するものを護れるのなら、命をかけたっていいと思っている」
「蕾・・・」
 彼女の愛するもの、それは母でありこの花恭苑の主でもある錦花仙帝や密かに想いを寄せていた妙香花仙であると東雲は思った。たった一言だけで蕾の気持ちは手に取るようにわかっているつもりだった。自分の力が愛する者たちを護るためにあるのなら、命すらもいとわないという激しさ、思い、それは彼の中にも存在したからだった。
「お前といると落ち着く・・・」
 蕾はため息のように呟いた。確かに蕾は薫に心を寄せていた。しかし、それとは別な感情をこの幼馴染みに感じ始めていた。それはごく最近からなのか、それとも初めて会ったあの日からなのか、自分自身よくはわからなかった。だが、幼馴染みがそばにいると心が落ち着くことは事実だったし、心から安心できた。そんな感情の正体は何なのか、薫に対して抱く気持ちとどう違うのか、蕾にはまだわからなかった。
 ほんの少し蕾の体が東雲に傾いた。それを感じた東雲はさらに強く蕾を抱きしめた。合歓の花がはらはらと二人の頭上をやさしく舞っていた。
「・・・いつまでも抱きついてるんじゃなーいっ!!」
 このまま時間が止まってしまえば良いのに・・・と思いかけた時、罵声とともに再び左頬にパンチを食らい、東雲はひっくり返った。
 怒りと恥ずかしさ、どちらともつかぬ感情に顔を赤らめ、不覚を取った・・・とばかりに息を荒げ、蕾は体勢を立て直した。そして立ち去ろうとする蕾に東雲がすがるように呼び止めた。
「つ、蕾・・・さっきの花将の件なんだけど」
 蕾は振り向いた。
「君が約束してくれるなら、錦花仙帝様に話してもいいよ」
 頬をさすりながらゆっくりと上体を起こした。口の中が切れていた。
「約束?」
「ああ、傷を負ったら必ず私の所に来ること、そして何より無茶はしないこと。こんな約束、君がおとなしく守ってくれるとは思わないけど、それが嫌なら、私がいつも君を見ているから。君が無茶をしないように、怪我をしないように、私がずっとそばにいて見ているから・・・お願いだよ、蕾」
 「約束」というより「お願い」という感もしないことはないのだが、切なげな目で訴えられると、蕾は「否」とは言えず、「わかった」と小さくうなずいた。
 その後、東雲の一言により、錦花仙帝は蕾が花将となることを承諾したのは言うまでもない。実のところそれは神意でもあったのだが、錦花仙帝はあえて反対し、蕾の心を試していたに違いなかった。
 誰が止めたところで言うことを聞くような蕾ではない、ということを東雲も錦花仙帝もよく承知していた。もしかしたら蕾の体の中の風の気質が彼女を花将へと導いているのかもしれない、とも感じられた。そしてそれならそれで良い、とさえ思っていた。蕾が蕾らしくあるためならば・・・。

 それは蕾が次期御大花将に任命された数日後に起こった。
「蕾さまが、皇女さまが下界へ降りられた!?」
 突然の知らせに薫は右往左往していた。しかしその知らせを聞いた東雲は、何のためらいもなく、すぐさま蕾を追って下界へと向かったのだった。

 キャミソール風のトップスにミニのプリーツスカート、ファー付きのGジャン、ローヒールのブーツに身を包んだ美少女が夕刻の雑踏の狭間で人待ち顔で立っていた。装飾品といえば幅の狭いカチューシャだけなのに、やたら輝いて見えるのは、見た目にも美しい容姿と、無意識のうちに発する彼女自身の「気」のせいだろう。横を通り過ぎる誰もが彼女の方を一度二度と振り返った。もちろん声をかける者も少なくはなく、大手の芸能プロダクションや、いかにもいかがわしげな雑誌のスカウトマン達が立て続けに声をかけていた。うっとうしそうに無視する少女に彼らは名前の書かれた白い紙をにぎらせ、別の女性にも同じように声をかけていた。
「時給一万円、いや、君なら二万円出すからバイトしない?」
 と誘う黒服の男もいた。しかし、彼らはいづれも連絡先の書かれた紙をにぎらせるせいか、引き際は意外とあっさりしていた。やっかいなのは不良、チンピラの類だった。
「彼女~一人?何してるのぉ~俺らと遊ばなぁ~い?」
 と数人のチンピラが声をかけてきた。腐った魚のような濁った目をした彼らは、明らかに何か体に良くないことをやっていそうな輩達だった。
「彼氏待ってんの?俺らがいいトコ連れてってあげるよぉ~」
 と少し舌をもつれさせながら、舐めるような目つきで少女の体を睨めまわし、いやらしい笑みを浮かべた。
 しつこく言い寄る連中に、無視し続けていたが、次第に嫌気がさし、男の一人に腕をつかまれたのをきっかけに、少女の右腕がピクリと動いた。
ドカッ!
 少女の腕をつかんだ男がま横に吹っ飛んだ。パンチの飛んできた方を見ると、これまた不良っぽい、しかしどことなく濁った目の奴らとは違うちょっと爽やかそうな、なかなかな美青年がいた。
「おめぇ~らいい加減にしろよな。こんな幼気な女の子にまで手ぇだして」
「あんだとぉ~!」
 言いがかりをつけられたとばかりに、濁り目の連中は割って入った青年に睨みをきかせ、胸ぐらをつかむと殴りかかった。たちまち乱闘が始まり、殴り、殴られ、5対1だったにもかかわらず、数分後には好青年が勝利を収めていた。
「くそっ、おぼえてろよ!」
 足をもつれさせながら、負け組はとっととその場を退散した。
「ひぇ~、よく見たらすっげー美人じゃん!あんた、そんなんでこの辺ふらついてたら、またあいつらみたいなのにからまれるぜ。ここにはああゆう奴らが山ほどいるからな。悪いことは言わねぇ、早くお家に帰んな」
 服のほこりを払いながら、青年は、補導員のように少女に言った。
「つ、蕾!こんな所にいたのかい、随分捜したのだよ!」
 と、そこへあちこちを随分探し回ったのか、息の荒い東雲が駆け寄ってきた。
「なに?あんたこの娘の彼氏?何かひ弱で頼りなさそうだなぁ。ほらほら、また変な奴らにからまれないように、しっかり捕まえとかなきゃだめだぜ!」
 そう言いながら、青年は蕾の腕をとり、東雲の腕に絡めた。
「そうそう、それでOK」
 自己満足の笑みを浮かべてうなずいた。
「おーい透、行くぞー!」
 少し離れたところで彼の立ち会いを見ていた仲間が名前を呼んだ。
「おう、今行くぜ!じゃぁな、気ィつけろよ」
 透は蕾の肩をポンポンと叩いた。
「ありがとう」
 小さな呟きではあったが、普段でない言葉が、いともすんなり飛び出した。東雲は驚いて思わず蕾の顔を見た。蕾自信も驚いているようだった。去っていく男の背を見送りながら、蕾はクスッと小さく笑った。が、東雲はおもしろくない。自分に対しては絶対にあり得ないあの台詞と笑顔を、どこの誰ともわからない、しかも下界の男に投げかけたのだから。
「つ、蕾・・・」
 その声にハッとなり、未だ自分が東雲と腕を組んでいたことに気付いた蕾は、慌てて腕をふりほどいた。
「し、東雲、なぜお前がここにいる!?」
 当然だと感じながらも、それを悟られないように少し驚いたように蕾は言った。
「君が下界に降りたと聞いて、慌てて飛んできたのだよ。はぁ、随分捜したよ、特にこの辺の大気はくすんでいるから君の花気をたどるのに少し苦労したよ。それにしても、なんだってあんな場所に立っていたんだね。」
 蕾が立っていた場所とは、繁華街のど真ん中、24時間絶えることなく、不特定多数の人々が往来する一角だった。
「あそこにいるとカモが金をしょってやって来るのだ」
 蕾は少々自慢げに言った。
「はぁ?」
「下界では金がないとどうにもならんのだ。さっきも数人の男どもが酒を飲ませてくれるというのでついていった。さんざん地層になったので帰ろうとしたら、妙なところへ連れ込もうとしたのでボコボコにしてやった。当分は出歩けぬだろう」
 フフン、と腕を組みながらズルそうに笑って見せた。
「なんてこと・・・!君って子は・・・」
 片手で頭を抱え、呆れ顔の東雲は深いため息をついた。
「あのね、蕾。君は・・・」
 東雲の小言が始まろうとしたので、蕾は聞く耳持たぬ、とばかりに歩き出した。
「だけどなんだって急に下界へなど来たのだね。一週間後には聖矛授与の儀が控えているというのに」
 小言は天界へ戻ってからでも、と思った東雲は蕾が下界へ降りた理由を確かめようとした。
「うるさい!お前には関係ない!」
 が、何がかんに障ったのか、蕾はものすごい剣幕で東雲を怒鳴りつけた。
「ねえ、蕾・・・君は一体何に腹を立てているんだい?」
 何も言わなくても、やはり東雲にはわかるらしかった。
「別に!」
「いいから、言ってごらん。何か力になれるかもしれないだろう?」
「話しても、お前には無理だ」
「どうして?言ってみなきゃわからないじゃないか」
 東雲は足早に歩く蕾の前へ出ると、両肩を押さえ、止めさせた。いつものことながら、東雲の表情は心配混じりの真剣そのものだった。
「・・・露珈が・・・現れないんだ・・・」
 そんな東雲の顔を見ると、いつもながら黙り通すことができなくなり、しかしそんな眼差しを正視できず、蕾は少し目線をそらし、呟いた。
「露珈?聖剣のことかい?」
「ああ・・・。私が次期御大花将に決まったからといっても、聖剣がなければ真の御大花将とはいえない。聖剣を手にして初めて御大花将となるのだから。しかし私の手には・・・」
 蕾は両の手を悔しそうに堅く握りしめた。
「蕾・・・」
 蕾のために、自分ができることならどんなことでもしてあげたかった。しかしこればかりはどうすることもできなかった。そんな東雲の心情を知ってか、蕾は再び歩き始めた。
 歩道橋の階段を昇りはじめたとき、何やら違和感を感じた蕾が振り返った。
「東雲、なぜそんなにくっついて歩く」
「え?」
「歩きにくいではないか、もっと離れて歩け」
 隙間を空けず、ぴったりと背後について歩く東雲に、蕾は眉間にしわを寄せ、言った。
「だめだよ」
 東雲は頬を染めて、ちょっと困ったように言った。
「なぜだ」
「なぜって、・・・見えるでしょ、他の人に」
「はぁ?なにがだ」
「ぱんつが」
 真剣に言う東雲の顔面に、ブーツの底がめり込んだ。
「これで見えまい!」
「はひ・・・」
 その時だった。不穏な気配と何者かが助けを求める波長を感じた蕾は、ハッと振り向いた。
「東雲、お前はここにいろ!」
「つ、蕾!?」
 そう言い残し蕾は昇りかけた歩道橋を降りると、人目のつかない路地に入り、一気に空を駆け上った。

 初秋の黄昏時、そこには幾本かの木蓮の木があった。辺りには尋常ではない妖しの気が満ちており、数本の木蓮が立ち枯れていた。
「助けて・・・!」
 それは次の花季を迎えるまで眠りについているはずの木蓮の花精の声だった。
「何者だ!姿を現せ!!」
 木蓮に害を成す何者かに、蕾は大声を張り上げた。すると一本の木陰から、一匹の怪魔が姿を現した。背中が大きく曲がり、小さな顔には異様なまでの大きな目、、耳まで裂けた口からは短いが鋭利な牙がびっしりと並び、その間から爬虫類のような長く細い舌をひょろひょろと出しては、時折自分の目玉をなめている。肌は鱗のようにひび割れ、ほぼ、四つん這い状態の怪魔は、意識を失っている木蓮の花精を自分の方に引きずり寄せると、蕾に向かいニタリと笑い、その首に噛みついた。
「ひっ・・・!」
 断末魔の悲鳴とともに、花精は蕾の目の前で散ってしまった。
「花精!?」
 自分の目の前で花精を手にかけられた蕾は、体中の血が一気に煮えたぎるのを感じた。「きさま、許さん!!」
「へへへ、木に咲く花は実にうまい。木の生命力と花の花芯、両方を味わえるからのぉ。小娘、お前も花の化だな。その花気からすると素晴らしく上等な花芯を持っているようだのぉ。これで木の生命力を持ち合わせていれば最高の獲物になるものを」
 怪魔は蕾を値踏みするように眺めると、口の端からしたたり落ちる唾液をズルズルと舌でなめ取った。
 堅く握った拳を振るわせ、今にも飛びかからんとした時だった。
「蕾!」
 怪魔との間に舞い降りたのは東雲であった。
「東雲!来るなと言っただろう!」
「君こそ、私との約束はどうするつもりだね!」
 東雲は蕾に歩み寄った。
「うっ・・・ま、まだ何もやっておらん!」
「やってからでは遅いのだよ!だいたい君は・・・」
 いつもの言い合いが始まりそうになった時、怪魔の声が二人を黙らせた。
「ほう、これはこれはなんという生命力の持ち主!さては天界の樹仙か。ということは小娘は天界の花仙だな。なるほど、地上のものとは格が違うはずだ。しかし極上の獲物が揃ったものだ。この二つを同時に食べればさぞや精が付くことだろう。ああ、うまそうじゃ。その白くて柔らかそうな肉にこの牙を突き立てたいのぉ」
 怪魔は蕾を見てニタリと笑った。
「やめろ!虫ずが走る!!」
 あまりの嫌悪感に蕾は叫んだ。
「ではまず小娘から・・・」
 言うと、怪魔の舌がゴムのように伸び、蕾の体をグルグルとからめとった。
「!?」
 シュウシュウと音を立てて、からまった舌から花気が吸い取られていくのを感じた。
「おお、なんと芳しい花気だ、未だかつて味わったことのない最高級の花気じゃ!」
 怪魔の表情は恍惚のあまり震えていた。それを見た蕾はカッとなり、からまる舌を振りほどこうとしたが、粘着性のあるそれからは簡単には逃れられなかった。
「蕾!!」
「来るな!」
 徐々に花気を吸い取られながらも、蕾は左の手のひらに気を集中させ、「名」を呼んだ。「露珈・・・!」
 それは御大花将のみが手にすることを許される聖剣の名であった。しかし聖剣は蕾のもとに現れることはなかった。
「くっ・・・」
 やはりダメか、と半ばあきらめた蕾は花炎を持ってして怪魔の束縛を断ち切った。怪魔はダメージを負ったものの、吸い取った蕾の豊かな花気のおかげで、ちぎれた先からすぐさま新しい肉片を再生していた。
「小娘の分際でわしの束縛を逃れるとは!」
 幾ばくかの花気を吸い取られ、消耗した蕾は片膝を地に着いた。
「その美しい顔が歪むのを見ながら、やわらかなその肉をゆっくりとむさぼろうと思うたが、これは一気に食いちぎった方が良さそうだのぅ」
 怪魔の舌が鋼のように変化した。とたんに矢を射たように蕾に向かって放たれた。
「蕾!!」
 とっさに東雲が蕾の前に身を乗り出した。
「ばか、東雲!」
 それを見た蕾は、東雲の背中を引き寄せると正面に体を踊らせ、覆い被さるように東雲を全身でかばっていた。
「あうっ・・・!」
 硬質の舌は蕾の背中から腹部を貫いた。
「蕾!!」
 蕾は東雲の体にのしかかるように倒れ込んだ。
「蕾!蕾!しっかりしておくれ!ああ、私はなんてことを・・・!私のせいで蕾が・・・あぁ蕾・・・蕾!」
 崩れそうになる蕾の体を必死に支えながら、東雲は半狂乱で叫んだ。 
「な、情けない顔をするな、これくらいの傷、私なら・・・だい・・じょうぶだ・・・」 蕾はかすかに笑って見せた。しかし蕾の腹部からはダラダラと芳しくも赤い血が止めどなく流れ出た。
 ドクドクと異様な動きを見せる舌は、どうやら蕾の血液を吸い取っているようだった。
「蕾ぃ!」
「はっ・・あぁっ・・・!」
 直後、蕾の体から無造作に引き抜かれた硬質の舌は、再び軟化し、今度は東雲の体をからめとった。
「あっ!?」
 蕾の体は東雲の手を放れ、どさりと力無く地に倒れ伏した。
「なんと素晴らしい獲物達だ!若さも生命力もみなぎってくるぞ!」
 東雲の体から精気を吸い取る怪魔の目は爛々と輝いていた。
「あぁ・・・くぅ・・・」
 両手の自由を奪われ怪魔の為すがまま精気を奪われ続ける東雲の姿が、薄れゆく意識の中、蕾の目に映った。
「し・・・しのの・・め・・・」
 こうしている間にも東雲の体は精気を吸い取られ、弱っていった。
『私は一体何をしているのだ・・・花精を護れず、東雲も護れず、これで御大花将になどなれるものか・・・!』
 体の力が抜け、東雲はその場に両膝をつき、ガクリと座り込んだ。
「東雲・・・!」
 苦しそうな東雲の表情は蕾の胸を強く締め付けた。
『東雲・・・!私の東雲!!こんなにも強く誰かを護りたいと思ったことが今までにあっただろうか。確かに私は、私の愛するものを護りたかった。だけどそれ以上に私は東雲を・・・東雲だけは失いたくない!他の何を失おうと、東雲だけは失いたくない!!』
 自分勝手だ、と思いながらも、もう蕾は自分の気持ちを曲げることはできなかった。
 蕾は傷口を強く押さえると、立ち上がろうとした。
「頼む、私に愛するひとを護る力を貸してくれ・・・この命と引き換えてでもかまわないか・・・!」
 ふらふらとおぼつかない足取りで、蕾はようやく立ち上がった。そして左手をそっと横に差し出した。
「露珈・・・我が手に!!」
 懇親の思いを込めて蕾は聖剣を呼んだ。
 白銀の稲妻が蕾の左手に落ちたように見えた。涼やかにも眩しい輝きが手中に消えたあと、蕾の左手には螺鈿細工の鞘も美しい、皇女花将の聖剣・露珈が握られていた。
「むう?」
 東雲に夢中になっていた怪魔が蕾を振り返った。鞘から抜かれた白銀に輝く細身の剣は、その輝きだけで目の前の怪魔をいとも容易く消滅させてしまった。蕾の思いに呼応するかのように・・・。


 天界は花恭苑、蕾は自分の宮の部屋で目を覚ました。
「気分はどうだい?」
 声のする方を見ると優しく微笑む東雲がいた。
「東雲!無事だったのか!?・・つっ・・・!」
 東雲の無事な姿を見て、慌てて起きあがろうとすると腹部に鈍い痛みが走った。
「まだ無理をしてはいけないよ、傷は完全にはふさがっていないから」
 東雲はゆっくりと蕾の半身を起こすと、自分も寝台に腰掛け、蕾の背中を支えるように座らせた。
「おぼえているかい?露珈が現れたこと・・・」
 東雲の笑みは変わらなかった。
「ああ・・・」
 蕾は自分の左手を見つめながら小さく呟いた。まだうっすらと感触が残っていた。
「君が下界へ降りた本当の理由は誰にも言ってない。だから後で大目玉を食らうことになると思うけどね」
 東雲は少し楽しそうに笑った。しかしそんな表情もすぐに神妙な面もちに変わった。
「露珈のことで君が悩んでいて、思いあまって下界へ降りてしまったこと、気付かなくってごめんよ。それに私のせいで君にこんな怪我を負わせてしまった」
 東雲は不甲斐ない自分を恥じていた。
「そんなことを言うな。これしきの傷、お前が治療したのならすぐに良くなる。それに露珈が現れたのはお前のおかげなんだから」
 蕾は右手で、包み込むようにそっと東雲の頬に触れた。その指の細さ、冷たさに東雲はドキリとした。
「え?」
 いつになく優しい表情と言葉をくれる蕾に、東雲はとまどった。
「自分勝手な感情だった・・・お前を・・・お前を護りたいと強く思った・・・私の命に換えてでも、と・・・」
 蕾の笑みはやわらかかった。
「蕾・・・」
「お前はいつも真っ直ぐに私を見ていてくれた。だけど私は・・・ずっと自分の心に素直になれなかった・・・」
 蕾は両手で東雲の顔を包み込んだ。
「だけどもう嘘をつくことはできない。東雲、私はお前を・・・」
 すぅっと近づく花の香りに一瞬息が止まった。そして微かに震える花びらが東雲に触れ、ゆっくりと離れていった。
「蕾・・・」
 東雲は一瞬呆然となった。

 いつの間にか辺りには甘美な香りが立ちこめていた。
「東雲・・・こっちだ」
 後方で蕾の声がした。
「!?」
 振り向くとそこには、白い肌も露わな蕾が両手を広げて東雲を呼んでいた。
「つ、蕾・・・?」
 その姿に少し頬を染めながらも、東雲の足は一歩、前へ出ていた。
 どこからともなく脳髄をくすぐるような妙なる楽の音も聞こえてくる。抗いがたい香りと楽の音、そして麗しい蕾の姿。
 今すぐにでも抱きしめたい、自分のものにしてしまいたい。心の奥底の願望を達成させたい・・・。そんな欲望が次々に東雲の心を支配していった。
「東雲・・・」
 蕾の柔らかいふくらみが手に触れた。
『そう、それで良い・・・。それで皇女はそなただけのもの・・・。お前の欲望のまま誰にも邪魔されることなく、こちらの世界で過ごすがよい』
 なんとも魅惑的な言葉に東雲は思考することを忘れかけていた。
「東雲・・・あぁ・・・東雲・・・」
 目の前の蕾が体を預け、自分の名を楽の音のような声で呼んでいる。
「私は・・・」
 東雲は朦朧とする意識の中、自分の腕の中で小さく身を震わす蕾をじっとみつめた。蕾も大きな瞳で見つめ返している。そしてその瞳の中に映るものは・・・。

「・・の・め・・しの・・・め・・・!東・・雲・・・東雲!!」
 甘い香り、麗しい思い人に意識が支配されそうになった時、怒鳴るような激しい声が頭の中で響き、東雲はハッとなった。この声は・・・。
「違う!これはうそっぱちだ!」
 顔面蒼白になった東雲は、自分の腕の中にすがるように身を寄せる蕾を引きはがすと、突き飛ばした。
「しの・・・め・・?」
 大きく倒れた蕾は、体が床に届く前に、体が溶けてしまうようにすぅぅと消えていった。
「これは・・・!?」
 辺りは深い霧に囲まれていた。もちろん天界の蕾の部屋も跡形もなく消えている。
「東皇使よ、何を迷うことがある。これはそなたの望んだことではないのか?」
 気がつくと、目の前には世にも美しい女天神の姿があった。神々しい姿に優しい笑みを浮かべながら女天神が語りかけてくる。
「女天神・・様・・・!?」
「さあ、こちらに参るがよい、こちらにはそなたが望むもの、もう一つの可能性が存在しているのだ」
 女天神は東雲に手をさしのべた。
「私の、望むもの・・・?」
「そう、そなたの望むものだ。言ってみるがよい」
「私の望むもの・・・それは・・・」
 東雲の脳裏には蕾の姿があった。しかしそれは先ほどまでの皇女である蕾ではなく・・・。その時だった。再びどこかで自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。
「さあ、こちらへ来るのだ東皇使よ」
 女天神が手招きしている。辺りを気にし、少し焦っているようにも見えた。
 甘い香りと妙なる楽の音、その二つが思考能力を奪い、抗いがたい気持ちにさせる。
「私は・・・」
 東雲は目眩を起こしそうな女天神の声に、片手で顔を覆った。
「早く来るのだ東皇使!」
 女天神は手を伸ばすと、東雲の腕につかみかかろうとした。
「東雲!」
「!?」
 先ほど一瞬我を取り戻させてくれた懐かしささえ憶える呼び声で、今度こそ東雲の意識ははっきりと覚醒した。そして女天神の腕を振り払うと、叫んでいた。
「森玄霊玉 祓濯!」
 正常な森林の大気が辺りを包み、ぼやけていた景色が確かな形を取り始めた。
「ぐぅっ!あと少しで・・・!」
 女天神は息を詰まらすと、二度目の失敗に舌打ちした。そして厄介者の気配を感じると、長居は無用とばかりにその姿を消したのだった。
 そこは都心の外れにある森の一角だった。
「東雲!」
 憔悴し、その場に座り込んでしまった東雲のそばに舞い降りたのは、彼を現実世界へと呼び戻した張本人、蕾であった。
「蕾・・・」
 ホットしたような微かな笑みを蕾に向けた。
「ばか者!勝手に居なくなりおって!もしまた余音の術中にでもはまったらなんとするつもりだ!」
 言われて、自分が余音こと、エセ天神の気配を感じ、飛び出したはいいが、結局はおびき出されたことを思い出した。そして内に眠る願望と欲望の海を覗かされていたことも。
「すいません・・・」
 東雲は申し訳なさそうに謝った。
「お前が無事ならそれでいい、帰るぞ!」
 半ば呆れながらも、安堵した表情を見られまいと背中を向けた蕾は、ため息混じりに言った。その後ろ姿が東雲には少しだけ皇女蕾とだぶって見えた。
『前回は聖仙にあるまじき憎しみの心で術中にはまることはなかった。しかし今回は、正直危なかったよ。君の声が聞こえなければ、私はあのまま余音の術に取り込まれていたかもしれないんだから・・・』
「蕾・・・」
 そう思うと、無意識のうちに背後から蕾を抱きしめていた。
「だーっ、何をするか!」
 蕾は東雲の腕を振り払うと真っ赤になりながらアッパーカットを見舞った。
「ハハ、やっぱり君は蕾だね・・・」
 顎をさすりながら、涙目の東雲は笑った。
「はぁ?何をわけのわからんことを!だいだいお前はなぁ・・・」
 と蕾が怒り出し、東雲が笑う。いつものことながら、やはりこれが「蕾」なんだと東雲は実感した。

 蕾が皇子であれ、なんであれ、蕾は蕾、その事実は変わらない。そして私の気持ちも・・・。だけどあの時の唇のぬくもりは忘れないよ。確かにあれも君だったんだから・・・。「しかし、ちょっと惜しかったなぁ・・・」
 と一人残念がる東雲に、「帰るぞ!!」と怒号を発する、何も知らない蕾であった。


おわり