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愁炎華・前編

愁炎華・前編

「へえ、『蕾』って少女って意味もあったんだ」
 ワープロの辞書機能で「蕾」という文字の意味を検索していた透が、感心したようにつぶやいた。そしてそれを聞いていた東雲が「ぷぷっ」と笑う。するとたちまち兄弟喧嘩とも思える取っ組み合いが始まった。

 その日は朝から春雨が降っていた。それは機械的な街並をやわらかな墨絵に変えてくれるような、そんなやさしさを感じる雨だった。
 通勤ラッシュも真っ只中、電車の中は雨のための湿気と人の熱気とでガラス窓はうっすらと曇り、外の景色を白く濁していた。ドア付近に立っていた、一見高校生風の女の子が口元にハンカチを当て、背中の半ばまでのばした髪をゆらしながら、眉間にしわを寄せていた。かすかに咳き込み、苦しくてたまらない、といった風だった。
「あのぉ、大丈夫でございますか?」
 そんな彼女のすぐ横に立っていた、サラリーマンにしては言葉も身なりも上品な髪の長い男性、妙香花仙薫が、自らも満員電車に気分を悪くしていたにもかかわらず、やさしく声をかけてきた。そんな薫に彼女は一瞬ひるんだが、「だ、大丈夫です」とだけ答え、顔をそらしてしまった。しかし彼女はさらに顔を歪め、薫はそんな彼女を小首を傾げながら見つめるしかなかった。
 数分後、最寄りの駅に到着し、ドアが開くや否や彼女は電車を飛び降り、人気の少ないホームの端に来ると、何度も何度も大きく深呼吸をした。
「あのぉ、本当に大丈夫でございますか?」
 そんな彼女を心配してか、降りるべき駅でもないのに降りて来た薫が再び声をかけて来た。
「う゛っ!」
 彼女は露骨に驚き、一歩後ずさった。
「ああっ」
 しかし、我慢できずその場にヘナヘナと座り込む彼女に、薫は思わず手を差し伸べていた。

「本当にすみませんでした。ご迷惑をおかけいたしました」
 駅前の喫茶店の片隅で、あたたかい紅茶のカップを挟んで二人は向かい合っていた。
「いえ、私の方こそすみませんでした」
 深々と頭を下げる薫に対し、彼女も同じように頭を下げていた。
「私、名前のわりににおい系がだめなんです。芳香剤のにおいはもちろん、香水やコロン、化粧品のツンとしたにおいや、きついにおいだと息苦しくなってクラクラきちゃうんです。フローラル系の微香性なら大丈夫なんですけどね」
 先程のことがよっぽど恥ずかしかったのか、彼女は顔を赤らめながら言った。
「そ、そんなににおいますか?」
 薫はなんだかとても悲しげに、シュンとしてしまった。
「あ、いえ、今日は雨が降ってて湿度も高かったから、電車の中の温度が上昇して、それで香りが高まったんだと思います。あなたのせいじゃないです。げんに今は私、大丈夫ですから」
 さらに悲しそうな表情を浮かべた薫に、彼女は慌てて弁解した。
「もしよろしければ、お名前をお聞かせ願えませんか?私は薫と申します」
「あら、少し違うけど同じだわ。私は香っていうんです」
 香はうれしそうにほほ笑んだ。

「なにをしているのだ、薫」
 部屋の片隅で両手を胸元に持っていき、なにやら集中している薫に、たった今外から帰って来た蕾が訊ねた。
「はい、特別製の香玉をつくっております」
「特別製の香玉?」
「はい」
 薫はにっこりと答えた。
「どこかの有閑マダムにでも注文をもらったのか」
 蕾はニヤリとずるそうな笑みを浮かべた。薫が営業先の婦人たちに人気があることを承知してのことだ。
「いえ、これはプレゼントでございます」
「プレゼント?」
 薫のその言葉に一瞬蕾の笑みがかき消えた。
「はい。今日、私たち花の者と係わりのある名前を持つ方にお会いいたしました」
「花の者に、係わる名前を持つ者?」
 蕾は怪訝そうに顔をしかめた。
「はい、私の名と同じ意味を持つ、香落渓香さんとおっしゃる方なのですが、名前によらずにおい系が苦手で、電車の中で私のにおいに気分を害されてしまいまして、お詫びのしるしに香さんでも身につけられる香玉をつくってプレゼントしようと思いまして」
「香?厳密に言えば違うのではないか?それにおまえの香りに気分を害する者に香玉を与えてもしかたなかろう」
 気に入らない、と言った面持ちで蕾はつぶやいた。
「いいえ、私は香りを司る花仙なれば、まったく係わりなき名ではございません。それに香さんはフローラル系の微香性なら大丈夫だとおっしゃっておられましたから」
「また会う約束をしたんですよ」と薫はまたもやにっこりとしてみせるのだった。

「薫さーん」
 桜の花も終わりに近づき、木々には青々とした葉が繁りはじめた公園の一角。待ち合わせ場所に先に来ていたのは香だった。
「遅くなって申し訳ございません」
 またもや深々と頭を下げる薫に、香は「あああっ、私も今来たところなんですぅ」と慌てて頭を上げさせた。
「あれ、この子は…」
 薫の後方に立っていた、内心、薫のことが気になってついて来た蕾を見て香が訊ねた。
「ああ、このお方は蕾さまとおっしゃって…」
「薫が迷惑をかけたようだな。すまなかった」
 薫が蕾の事を紹介しようとしたときだった。薫の言葉を遮って蕾が詫びの言葉とともに軽く頭を下げたのだった。
「つ、蕾さま…」
 昨夜とはうってかわったその予想外の行動に薫は驚き、感動のあまり滝のような涙を流した。
「おまえはオレの教育係り。おまえが人に迷惑をかけたのなら、オレとてあやまらねばなるまい」
 仕方のない奴め。と言わんばかりのえらそうな態度の蕾であった。
「だいだいおまえは人が良すぎるのだ。誰彼かまわず相手にして、あとで傷つくのはおまえの方なのだぞ。まあ、この女の様子からして、そんな危険は感じられんようだが」
 蕾は腕を組み、自分のことはまるっきり棚上げで、まるで手のかかる子供を叱るかのように、香に聞こえないようにつぶやいた。
 人が良すぎるのは蕾さまの方でございますよ、と内心薫は思った。どんな言い方にしろ、薫にはその言葉の裏側にかくされた、蕾のやさしさを感じ取ることがいつでもできたからだった。
「いえ、私の方こそ薫さんにいやな思いさせちゃって、本当にすみませんでした」
 香も改まって頭を下げた。
「実は今日はこれを…」
 薫は香の目の前に右手を差し出すと、そっとその手を開いた。そこには薄ピンク色の小さな丸い玉のついたペンダントがあった。
「うわぁ、かわいい」
「私、香玉のセールスをやっております。これは強い香りが苦手な香さんのために作った特別なもの。身につけているだけで、自然な香りが纏えますよ」
 薫はやさしくほほ笑んだ。
「でも、これって高いんでしょう?」
「いいえ、これはプレゼントでございますよ」
「ええっ、本当ですか?うわぁうれしい!あ、これ薫さんと同じ香りだ。薫さんの香りをうんとおさえてあるのね。これなら私でも大丈夫。ありがとうございます」
 よくお解りで。と薫はほほ笑んだ。香はそれを手にすると、子供のように無邪気に喜び薫に抱きついた。それを見た蕾は呆れると同時に、本来心配していたこととは別の意味で薫が危ないかも、と思わずにはいられなかった。
「ねえ、お礼に何かおごらせてください。蕾くんも一緒に」
「え、そんな、どうぞお気遣いなく」
 瞳をキラキラと輝かせ、すがるような香の誘いを丁重にことわる薫を、いいからいいから、と半ば強引に引っ張り、三人の姿はいつしか街の雑踏の中へと消えて行った。

「ねえ、薫さんと蕾くんって一体どういう関係なの?」
 大通りに面した小さなレストランの一画に陣取った三人は、思い思いのメニューをオーダーし、食事もそろそろ中盤にさしかかったころ、すっかり二人に打ち解けてしまった香が唐突に切り出した。
「?」
「だって薫さん、蕾くんのこと蕾さまって言ってるから」
 香は首を傾げた。
「さっきも言っただろう、こいつはオレの教育係りだ」
 蕾はスパゲティを頬ばりながら、さも当たり前のごとく、えらそうに答えた。こいつってあんた…。心の中で一人突っ込みながら、香はさらに訊ねた。
「じゃあ、蕾くんってぼんぼんなんだ」
 香は感心したように言った。
「ぼんぼん?なんだそれは」
「関西弁でおぼっちゃま、ってこと」
「ふん、まあそんなもんだな」
 蕾はまたもやえらそうに、ソファーにふん反り返って答えた。
「でも、ぼんぼんの教育係りの薫さんがなんでセールスマンなんてやってるの?」
 素朴な疑問だった。
「それはまあ、いろいろございまして、今は蕾さまのご友人のマンションにご厄介になっている身でございます」
 薫は焦ったように笑ってごまかした。
「ふぅん」
 なんだかよくわからない香であった。
 コンコンコン。
 ガラス窓をノックする者がいた。通りに面した席に座っていた彼らは一斉にそちらの方を振り返った。
「げっ、東雲!」
 ガラス越しに笑顔を浮かべてこちらを見ていたのは、蕾の幼なじみの東皇使東雲と親友の川原田透であった。
「朝からいないと思ってたら、薫さんと一緒にレストランで昼飯かよぉ。オレも誘ってくれればよかったのにぃ!」
 いつの間にか二人は蕾たちのもとにやって来て、透が蕾の首を絞めた。
「おや、お子様ランチかい?おいしそうだね」
 言わなくても良いことをついつい言ってしまう。かまわずにはおられない東雲であった。
「だーれがお子様ランチなど食うか!」
 蕾はミートソースを飛礫のように東雲の顔に飛ばした。
「おや、こちらの方は…」
 東雲が香のことに気づき、訊ねた。
「ああ、薫の知り合いで香という」
 無愛想に蕾は答えた。
「私は薫どのに訊ねたのだが」
「…☆」
 ひたすらかまわずにはおられない東雲であった。
「香さん…はて、どこかでお会いしませんでしたか?」
 東雲は記憶の糸を手繰り寄せるように何やら考え込んだ。
「い、いえ、初めてお目にかかりますぅ!」
 東雲に訊ねられ、なにやら妙に焦った様子の香が力いっぱい否定した。
 東雲は再び腕を組み、さらに考え込んでしまった。
「東雲、今時そんなナンパの仕方ははやんねぇぜ」
 と透が東雲の背中を小突いてからかった。
「いや、そういうつもりでは」
 透にからかわれ、焦りながらも弁解し、しかしおかしいな、確かどこかで会ったことがあるような気がするのだが…と首を傾げるのだった。そして香、といえばできるだけ二人に顔を会わさないようにするかのごとく、目をそらし続けるのだった。
「ところでさ蕾。駅前にアイスの専門店ができたんだって。オレおごるから後で行かないか?」
 その時、顔をそらしていたはずの香の耳がピクリと動き、突然彼らの会話の中に入って来た。
「そこ知ってる!」
 そう言ってカバンの中から取り出したのは、テレフォンカード大の一枚のカードだった。
「じゃーん。これね、そこの店の一年間無料パスポートなの。オープン記念で抽選で十名様に当たるやつだったんだけど、実はその店に知り合いがいてー、もらっちゃった 一回に三百円分しか使えないんだけど、ダブルなら一個、シングルなら二個買えるの。行くんだったら貸してあげる。こういうのはとことん使わなきゃ損だからね」
「ひぇーっ」
 にっこりとする香が女神に見えた透であった。
「私は?」
 そんな三人の間に顔を寄せて来た東雲だったが、「おめぇーは誘ってないんだよ」と透に冷たくあしらわれ、しかし香は「うん、いいよ」とまたもやにっこりするのであった。
「ところで、なにか用があったのではないのか」
 東雲と透を避けていたはずの香だったが、いつの間にか意気投合し、盛り上がっているところへ蕾が真顔で訊ねた。
「…あとでいいや。あ、すいませんコーヒーください」
 部外者である香がいたことに躊躇し、なんでもない風を装い、東雲は横を通り過ぎようとしていたウェイトレスに声をかけた。
「一体何しに来たんだ!」
 そんな東雲に罵声を浴びせる蕾であった。


「実はこれを見てほしい」
 香と別れてから四人は透のマンションに集まった。
「これは…最近あちこちで頻繁に起きているという、殺人事件のスクラップ記事でございますね」
 東雲が持参したいくつかの新聞の切り抜きを見て、薫が言った。
「ええ、死体は何れもミイラのように干からびていたといいます」
「それがどうしたというのだ」
 蕾は機嫌が悪そうに、その場にゴロリと仰向けになった。「とても人間業とは思えないのだよ。これには何か裏があると思うのだが」
「と、申しますと?」
「それがまだわからないのです。独自に調べてはいるのですが」
 東雲は困ったようにため息をついた。
「真相もわからん話など持って来るなー!」
 蕾は起き上がると、大声を上げた。
「また何かわかったら知らせに来るよ」
 そんな東雲の背中に「来んでもよいわ!」とまたもや罵声を浴びせる蕾であった。


 それは翌日の日曜の昼を少し過ぎた頃だった。後ろから肩をポンとたたかれ、蕾は振り向いた。
「やっほー」
 そこにはなにやら怪しげな笑みを浮かべる香がいた。
「偶然。ねぇ、どこ行くの?」
 やけにニコニコとする香に不審を抱きながらも、蕾は正直に答えた。
「いや、暇だったのでゲーセンにでも行こうかと思っていたところだ」
「あ、じゃあちょっと私に付き合ってくれない?」
 香はさらに怪しげな笑みを浮かべた。
「かまわないが、どこに行くのだ?」
 一度出た言葉は二度と引っ込むことはない。言ってから蕾はなぜか嫌な予感とともに、後悔の念に襲われた。
「ホ・テ・ル♡」
 ちょっと恥ずかしそうに、しかし楽しそうに切り返す香におののきを感じた蕾だったが、腕をがっしりと捕まれ、逃げるに逃げられず、同行するはめになってしまった。

 ホテルのティーラウンジには色とりどりのデザートが並んでいた。そしてその一角で香がニコニコと蕾の顔を眺めている。
「おいしい?」
「甘い!」
 蕾は五つめのケーキを完食したところだった。香は、といえば既にその倍以上のケーキを食べ尽くしていた。
「ごめんねー。友達とか誘ったんだけど、みんな忙しくてフラレちゃったの。でもここのケーキバイキング今日までだったからどうしても来たくって」
 眉をしかめる蕾に、香はクスクスと笑った。
「もっと日にちに余裕をもって来ればよいのだ!」
「それもそうね。でも実はここに来たのこれで三回目なの」
 クスッと笑い、平然と言ってのける香に、蕾はすすっていたブラックコーヒーを吹き出した。
「食欲魔人め…」
 小さくそうつぶやくと、蕾は再びおかわりに立つ香の後ろ姿を呆然と見送るのであった。
 ホテルを出てから二人は、まだ日が高いのをいいことに子供のようにゲームセンターで遊び、カラオケで盛り上がり、ファミリーレストランで食事をした。すべて香のおごりであった。
「今日はすまなかったな。こんなつもりではなかったのだが」
「ううん、気にしないで。私も久しぶりにいっぱい遊べて楽しかった。ありがと、蕾くん」
「その蕾くんというのはやめろ。オレは子供ではない」
 くん付けによって子供扱いされた気分になった蕾は、ツンとした。
「あ、ごめん。じゃあ、ありがと蕾」
 その反面、なんだかうれしくなった香であった。
 夕暮れ時、ようやく透のマンション近くで二人は別れた。
「蕾さま!」
 次に声をかけてきたのは、くすんできた大気によれよれになりかけた薫であった。
「なんだ薫、まだ営業に出ていたのか」
「はい、御得意先で足止めされてしまいまして」
 薫はふらふらと蕾の後をついて歩きだした。
「蕾!」
 またもや声をかけられ、蕾は振り向いた。東雲であった。
「いま、君のところへ行こうと思っていたところなんだ」
 慌てて走って来たせいか、東雲は何度も何度も肩を大きく上下させ、呼吸した。
「例の事件のことで、とんでもないことがわかったんだよ」
 徐々に息を整えながら、東雲はゆっくりと話し始めた。
「…なんだ」
 穏やかに返しながらも蕾の目は、またいい加減な話だったら殴るぞ、と語っていた。
「被害者の共通点がわかったのだよ。被害者は皆『花』に係わる名を持つ者たちだったんだ!」
「花に係わる名前の持ち主?」
「ああ、そうなんだ」
「……花子、とか?」
 蕾は冗談で言ったつもりだった。しかし東雲は真剣だった。
「ああ、花や華はもちろんのこと、桜や桃、百合や蘭…。とにかく花に係わりのある名の持ち主が犠牲になっていたんだよ。名は体を表すって言うだろう?人間も花に係わる名を持つことでわずかながらだけど花気を宿している。華芯さえ持っている者だっているんだ。それは君だって知っているだろう?そう、ともすれば君や薫どのだって狙われかねないんだよ!」
 東雲は一気にまくしたてた。蕾は東雲の話をちゃんと聞いているのかどうか、何やら考えにふけっていた。そして突然思い立ったように伏せていた顔を上げた。
「香があぶない!」
 そう言うと蕾はとっさに元来た道を引き返した。東雲の話によると被害者は皆、花に係わりのある名の持ち主、ということだったが、香は名前どころか名字にも同じ『香』という字を持っていたからだ。
「まさかとは思うが…」
 蕾は香の持つ香玉の香りを頼りに、夢中で走った。

「きゃーーーーっ!」
 突き当たりの辻を右に曲がったその時だった。黒い人影から幾本もの触手のようなものがうねり、香を捕らえていた。
「香!」
「蕾!?」
 触手のようにみえたそれは、黒い人型の怪物の頭部から波打つように蠢く、異様なくらいに黒く輝く髪の毛であった。香はその髪の毛に搦め捕られ、ほとんど身動きができない状態であった。
「何者!? 」
 蕾が威嚇した時だった。
「これは…」
「香さん!? 」
 あとから蕾のことを追って来た東雲と薫が、その光景を見て叫んだ。
 シュンッ!
「!!」
 その時、突然怪物はその触手を蕾へと延ばしたのだった。しかしそれを躱すのは、蕾にとって何ら難しいことではなかった。
「しまった!」
 だがその触手は、限りなくな気高い香気に気づき、薫に向かって延ばされたものだった。
「ああっ!」
 触手は見事に薫の体をも搦め捕ってしまった。
「薫!!」
 自らの行動が招いた失態に、舌打ちしながらも蕾は再び怪物に向き直った。
「これはこれは、なんという香気!さぞや名のある天界の花仙さまとお見受けする。またそこな小僧もなんという豊かな花気の持ち主!下界の人間共とは比べものにならぬわ」
 怪物はギラリと光る細い目を更に細め、ニヤリと笑うと、舌なめずりをするかのごとくつぶやいた。
「薫さんっ!こいつ、薫さんになにするのよぉっ!」
 香は束縛された右腕に力を込めると、ゆっくりと動かし、反動を付けて持っていたカバンを力の限り怪物に向かって投げ付けた。それは軽く放物線を描き、力無く怪物の顔に当たって落ちた。
 怪物はゆっくりと香の方に振り返った。その目は吊り上がり、確かに怒りに満ちていた。
「きゃぁーーーーーーーーーっ!」
 突然怪物の頭部から電流のようなものが迸り、香を搦め捕っていた髪の毛を伝い、香の体を襲った。
「香!」
「あああああっ!」
 バリバリと激しい音を立て、それはいつまでも続くかと思われた。
「っ!」
 蕾はとっさに跳躍すると、塀の向こうからのぞいていた木犀の枝を手折ると怪物にむかって投げ付けた。
「!」
 怪物は紙一重でそれを躱した。しかし、それは香を搦め捕っていた髪の毛を見事に切断し、身をかわしたことにより、怪物は薫の体をも解放せざるを得なくなった。
 蕾は手のひらに華の炎を発火させた。
「まさか…花将か 」
 蕾が花将であると知った怪物は、舌打ちすると攻撃を続けることなく、慌てて闇の中へと消えて行ってしまった。
 強ばっていた体の力が抜け、香はガクリとひざを折った。そんな香に蕾が駆け寄り抱き起こした。
「大丈夫か?」
「薫…さん…は…?」
 香は薄れ行く意識を必死に保ちながら、蕾に訊ねた。
「薫なら大丈夫だ」
 見ると、東雲に支えられた薫が香の目に映った。
「よか…た…」
 それを確認すると、香は蕾の腕の中で意識を失った。

 ここは、どこだろう…。
 そこは見たこともない、いや、確かにどこかで見たことのある、美しい花花が咲き乱れる園だった。空気は清浄で、現在知っているものとはどこか異質な感じがした。美しさを競うように咲く花花は、しかし清楚で可憐だった。そんな一輪の花を手に取ろうと手を伸ばした。すると手を触れたところからたちまち赤い炎がゆらめき、あっというまにその花を焼き尽くしてしまった。驚き、それでも別の花に手を伸ばすが、それは本人の意思とは無関係に花を炎に包んでしまうのだった。
 なぜ?なぜこんなことに…。
 炎は次第に辺りに広がり、花園を炎の海に変えてしまう程だった。
 なぜ!?
 燃え盛る炎の真ん中に立ち、嘆願にも似た切ない叫びを上げてみるが、それは誰にも届きはしなかった。

 カーテンの透き間からこぼれる朝日のかけらと、かすかに聞こえる鳥の声が意識をほんの少しだけ刺激した。香はゆっくりと目を開けた。そこは透のマンションであった。
 何げなく横を向いてみると、そこには床にマットを敷き、背中をこちらに向けて眠っている蕾の姿があった。香はゆっくりと上半身を起こした。鈍い痛みが一瞬頭の中を走り、思わず頭を抱えた。
 ゆうべの奇っ怪な出来事が思い出された。するとなんだか急に恐ろしくなり、体が強ばった。
「気分はどうだ」
 蕾の声にハッとなり、香は顔を上げた。
「あ…大丈夫。ちょっと頭がズキズキするけど」
「そうか」
 蕾は小さくつぶやいた。
「薫さんは…」
「隣の部屋で眠っている」
 薫が無事だったことに、香はホッと胸をなでおろした。
「…ねえ、蕾。ゆうべのあれは一体何だったの?私、蕾と別れてから突然襲われて…わけがわかんなくて。あの怪物は何?蕾は何であんなこと…蕾たちは私たちと同じじゃないの?」
 香は頭に思いついたことをそのまま口に出していた。突然現れた黒い怪物は、薫を天界の花仙といい、蕾を花将だと言った。そして美しい炎の華を手にし、人間離れした動きを見せた蕾…。
「…」
 しかし蕾は何も答えようとはせず、少し戸惑ったような面持ちで目を伏せた。そこで香は再びハッとなった。蕾が自分を助けてくれたことを思い出したのだ。
「…あ、ごめん。私、わけのわかんないこと言っちゃったね。なんだか頭の中がぐちゃぐちゃしてて…。蕾は私のこと助けてくれたのに…」
 香は両手で顔を覆った。
「でも、落ち着いたら大丈夫。何でもなくなるの。時間もそんなにかからないと思うし。それに私ってけっこういい加減な奴だから」
 香は少し焦ったようにつぶやいたが、最後には顔を上げるとニッコリと笑った。
 なんて楽観的な思惟の持ち主だ、と蕾は思ったに違いなかった。それと同時にどこかしら安堵の気持ちが沸き上がってくるのも、かすかだか感じることができた。
「ありがとう、蕾」
 しっとりとした時間が二人の間を流れたような気がした。しかしそんな雰囲気を壊したのは、香の素っ頓狂な悲鳴であった。
「うそーっ!もうこんな時間 仕事に遅れちゃうよー!あうう、頭いたーいっ 」
 時計は七時五十五分を少し過ぎていた。
 そんな大声にめまいを起こしかけた蕾をよそに、香は服を着替えると、髪の毛を梳かしはじめた。
 こいつ、社会人だったのか…。妙な納得を強いられた蕾であった。
「あ、そうだ。透!透を起こさなきゃ!」
 突然何を思ったのか、香は透が眠っている隣の部屋へと乱入した。
「透、起きなさい!遅刻するよ!あんた最近学校休み過ぎよ、出席日数足りなくなっても知らないんだから!ほら、さっさと起きる!」
 布団をひっぺがされ、跳び起きた透は目をパチクリさせて驚いた。
「朝食作ってる間に着替えて、すぐによ!」
 透の横で薫も何が起こったのかと、呆然としていた。
「うそー、信じらんない。冷蔵庫の中、卵とビールしか入ってないじゃない!」
 ほぼ空っぽの冷蔵庫を目の当たりにして、香が呆れたように叫んだ。
「あんたたち、一体毎日何食べてるのー」
「外食か、コンビニの弁当だ」
 えらそうに言う蕾にさらに香は怒鳴った。
「あのねぇ、あんたたちは育ち盛りなのよ!しっかり食べなきゃどうすんのよ!あ、蕾コーヒー入れて。私は紅茶ね」
 怒鳴りながらも香は蕾に指示を与え、辛うじて残っていたパンをトーストにし、卵をオムレツにした。
「透、もっとしっかりしなさいよ、冷蔵庫の中、空っぽじゃない。私も一人暮らししてるけど、食べることだけはちゃんとやってるわよ」
 それはおまえが食欲魔人だからだ…。と言いたいのを蕾はグッとこらえた。
「蕾も、ずっと家にいるんならごはんくらい作りなさい。男の子が料理しちゃいけないって法はないんだから。これだから男所帯は心配なのよね」
 眠い目をこすりながら、わけがわからず起きて来た透と薫はまだぼーっとしていた。
「時間ないから私、もう出るね。あ、蕾、みんなが食べた後ちゃんと片付けといてね」
 香は自分の皿を手早く片付けると、さらに蕾に指示を与えた。
「なぜオレがそんなことをしなければならんのだ!」
 蕾は不服一杯に頬を膨らませた。
「蕾ちゃーん、いい子だからちゃーんと片付けるのよぉー」
 しかし香はニコニコと笑みを浮かべながら、げんこつを蕾の両こめかみあたりにグリグリと押し当てるのだった。その光景に透と薫は恐怖の表情を浮かべたのだった。
 そんな香がマンションを出て行き、しばらくは呆然としていた三人だったが、突然薫がクスクスと笑い出した。
「香さんはまるで、透さまと蕾さまの母君か姉君のようでございますね」
「うーん、どっちかってーと、口うるさい姉貴って感じだな」
 透は体をふにゃりとさせて言った。
「…姉とはああゆうものなのか?」
 こめかみのあたりをさすりながら、蕾がつぶやいた。
「んー、いろんな姉貴がいるけど、やっぱ美人でぇー、やさしくってぇー、時々小遣いなんかくれたりしてぇー…」
 と、透は自分の理想像の姉を思い浮かべてうっとりとした。
「ああ、そうそう。強い姉貴ってのもいいなぁ」
「強い姉?」
「ああ、オレのダチの姉貴なんだけどさ、そいつが五歳のとき、交通事故にあいかけたんだ。で、その時二つ年上だった姉貴がとっさにかばってくれて、かすり傷だけですんだんだって。それってある意味では強いと思わない?」
 蕾はよくわからない、といった面持ちだった。そういえば蕾って一人っ子だったんだ、と思い出した透であった。

「おーい東雲、悪いがこれ運ぶの手伝ってくれないか」
 校内でも優等生で有名な東雲を呼び止めたのは、かなりのプリントを抱え込んだ中年教師だった。
「これ、今日の職員会議の資料なんだが、この昼休み中に綴じてしまわねばならんのだよ」
 プリントの約半分を東雲に任せ、それでもよたよたと廊下を歩きながら、教師はとあるドアの前で立ち止まった。
「香落渓さーん、ここ開けてー」
 中年教師は足のつま先でドアをドンドンとノックすると、そう叫んだ。彼の口から出た聞き覚えのある呼び名に東雲は、おやっと思った。
「はいはーい、ちょっと待って下さーい」
 そして、ドアの向こうから帰ってきた声に、さらに聞き覚えがあったので、おやおやっ?と思った。
「はい、どーぞ」
 開けられたドアの向こうから現れたのは果たして、香であった。
「げっ、し、東雲くん!」
 蛇に睨まれた蛙のように、香は一瞬固まった。
「香さんて、ウチの生徒…なわけないか…」
 私服姿の香を見て、東雲は言い直した。

「初めて会ったとき、どこかでお会いしたことがあると思ったのはやはり気のせいじゃなかったんですね。しかし香さんがウチの学校の職員だったなんて、どうしてかくしていたんですか?」
「いやぁー、別に理由はないんだけどね。なんか最初に言っちゃうとみんなとこんなふうに友達になれなかったんじゃないかと思って…」
 そこで香はハッとなった。
 蕾は…?蕾たちもそんなこと、思ったりしたのかしら。これは自惚れかもしれない。けど、もし私が彼らと知り合う前に彼らの正体を知っていたら、こんなふうに友達になれただろうか?私は…もしかしたら…。
「そんなことはないと思いますよ」
 まるで香の思いを打ち消してくれるかのような東雲の言葉に、香は再びハッとなった。
「確かに、香さんとは職員室や廊下なんかで何度も顔を会わせていたと思います。しかし、縁がなければ何度顔を会わせようがそれっきり。言葉すら交わさなかったでしょう。だけど私たちはこうして知り合った。きっかけは何であれ、出会うべくして出会った。そう、遅かれ早かれ、きっとこうなるようになってたんですよ」
 出会うべくして出会った友達…。東雲のそんな言葉が香にはなぜか無性にうれしかった。
 昼休み、頼まれた資料綴じもそっちのけで話に盛り上がる二人であった。
「あ、東雲くんに透のこと聞けばよかった。ま、いいか。直接担任に聞こうーっと」
 東雲と別れてから透のことを思い出し、透がきちんと登校しているかどうか確かめればよかったと後悔しながらも、あっと言う間に開き直り、仕事を始める香であった。

「おーい、川原田。彼女から伝言だ。五時に校門前で待ってるそうだ」
 終わりのホームルームの後、透は担任に呼び止められ、メモを渡された。
「彼女ーぉ!?」
 どこの彼女だ と不審に思いながらも、普段からつまらぬおやじギャグをとばすので有名だった担任の言うことなので、間には受けなかったが、とりあえず校門前で待つことにした。
「えらいぞ、ちゃんと学校来てたんだね」
 五時をほんの少し過ぎたとき、透の前に赤い乗用車が一台止まった。窓から顔をのぞかせ、ほほ笑んだのは香であった。
「オレの彼女っていって電話くれたの、香さんだったんですかぁー。ちゃんと名乗ってくれたらよかったのにぃ」
「えー、彼女なんていってないよー」
 あんのおっさん、なにゆってんだかー。と内心透も思っていたことを知らず、いゃぁ、それはちょっとねー。と香はいたずらっぽい笑みを浮かべながら頭を掻いた。
「あのね、実は透に聞きたいことがあるの」
 香は急に表情を引き締めた。
「…もしかして、蕾のことですか?」
 その様子に、話の内容を察した透も真顔になった。
「うん、直接彼らに聞かないのは卑怯だとは思うの。でも、きっと教えてはくれないと思うから…」
「それ聞いて、どうするんです?」
「別に…どうこうしようってんじゃないの。ただ、ただ知りたいだけ。あの夜のことで蕾たちが私たちとは少し違うんだってこと、わかった。そのときはそんなこと、どうでもいいと思ってた。今でも思ってるよ。でもね、やっぱり知りたいの。…矛盾してるね。好奇心の虫が疼かないって言ったら嘘になるけど、蕾たちのこと、知りたい。ねぇ、好きな人たちのこと、知りたいと思うのはいけないことかしら?」
 香は少し困ったように小首を傾げた。
「それは…、みんなそうだと思いますよ。オレもあいつらのこと好きだからいろいろ知りたいと思う。けど、無理には聞けないっスよ。あいつが自分から言うまでは」
 透は肩を落とすようにうつむいた。
「…私ってさ、あなたたちにとってどの程度の友達になれるんだろう。私はね、あなたたちに出会ってすぐにみんなが好きになったの。懐かしい気にさえなったわ。なんでだろうね。蕾たちが普通の人間とは違うってわかってからでも気持ちに変わりはなかった。ちょっと驚いたけどね。透は蕾たちのこと、いろいろ知ってるんでしょ?そりゃ透は蕾の親友だから知ってて当たり前なのかもしれない。でも、私には知る機会は与えてもらえないのかな…なんて思ったりして」
「確かにあいつはオレの大切なダチのひとりですけど、オレだってあいつらのこと全部知ってるわけじゃないし…それにあいつ結構香さんのこと気に入ってるみたいですよ。今朝もあの後ちゃんと後片付けやってましたから。あいつけっこうシャイなところがあって、思ってることあんまり口に出さないから回りの者が不安になるんだと思うんです。でも、安心していいと思いますよ」
 透の意外な言葉に香は一瞬呆然とした。
「ほん…とに!?」
「ええ」
 透はニッコリとして見せた。そして怒った蕾、笑った蕾、照れた蕾、それに携わった薫や東雲の話を香に話して聞かせたのだった。
「透って蕾のことが好きなんだねー」
 楽しそうに蕾のことを話して聞かせてくれる透の笑顔を見て、香がほほ笑んだ。
「いゃぁ、薫さんには負けますよー」
 ふたりはそのセリフに大爆笑した。
「…私ね、弟がいたの。蕾のこと見てるとなんだか自分の弟みたいに思えて、ほっとけない感じがするの…」
 …がいた。過去形で言う香に疑問を感じながらも、透はあえてそのことは口にはしなかった。
「…なんだかすごくうれしい…」
 香はため息にも似た笑顔を浮かべた。
 ほんの少しずつだが、彼らのことを知ることができ、香はなんだか彼らの成す『輪』の中に入ることができたような気がした。それは一つの大きな輪ではなく、蕾を中心に、蕾を囲むように成された輪のように思えた。
「透、あんたってやさしい子だね。お礼になにかおごるよ、なにがいい?」
 香は顔をほころばせながら訊ねた。
「本当っスか?じゃあ、アイスがいいっス!」
「よーし、じゃあ『71』へ行こう。アイスの食べ放題やってるんだ 」
「ラッキー!」
 二人が乗った車は学校を離れ、一路『71』へと向かったのだった。


 ピンポーン。
 夕刻、玄関のチャイムが鳴るので、誰かと思い出て見れば、それは数時間前に別れたばかりの香であった。
「あれー、香さんどうしたんですかぁ。それにその荷物…」
「あのね、夕飯にカレーを作ったんだけど、たくさん作りすぎちゃって、おすそわけに持ってきたの」
 香は鍋を入れた袋のほかに、さらに荷物を持っていた。
「まあまあ、こんなにたくさん」
 そしてテーブルの上に並べられた大小のタッパーウエアの数々を見て驚いたのは薫であった。
「あのね、このかぼちゃの煮物ときんぴらごぼうとポテトサラダははやめに食べてね。それからこれ、形は悪いんだけど、海老餃子なの、冷凍しとくから食べるときに焼いてね。それくらいできるでしょ?こっちのハンバーグとミートソースは火を通してあるから、食べる前にレンジでチンしてね。あと、実家から野菜を送ってきてくれたから、これもおすそわけ。しっかり食べるのよ」
「か、香さん、こんなにたくさんわるいっスよー」
「いーのいーの、たくさんあるから助けてほしいのよ。それにあのカラッポの冷蔵庫を見たらほっとけないもの」
 香はまるで近所の世話好きの主婦のように、ケラケラと笑った。
「透、おまえも食え。このカレー、なかなかいけるぞ」
 いつの間にか、蕾が勝手にご飯をよそい、カレーをほおばっていた。おまえなぁー。と呆れる透であった。

「蕾!」
 東雲が血相を変えて飛び込んで来たのはその時だった。そして香がいたことに少し躊躇したが、息を整えるとゆっくりと話始めた。
「ゆうべ、また二人の女性が殺された…」
「ゆうべって、もしかしたら香さんが襲われた後?」
「ああ、恐らく」
 昨夜、帰宅途中の女子大生とOLが何者かに殺された。名前は高田咲弥と藤井可菜子。いずれも花に係わる名の持ち主であった。そして死体はやはりミイラのように干からびており、最近頻繁に起こっている連続殺人事件と何らかの関わりがあるものとされていた。
「高田さんって、オレ知ってる。たしか…」
「卒業生よ。三年前の」
 東雲の話に少し顔を青くしていた透は、香のセリフにぎょっとした。そして後に東雲から聞かされた話に、更に顔を引きつらせたのだった。
 そして『咲』と『菜』、被害者が何れも花に係わりのある名前の持ち主であることに、蕾は表情を曇らせるのであった。


「なんだ、透」
 その日は晴天続きの合間の、久しぶりの雨が降った夕刻だった。部屋の傍らでゲーム雑誌を読んでいた蕾が突然顔を上げ、透に訊ねた。
「え、なに?」
 しかし透は不思議そうに訊ね返すのだった。
「なにって、今オレのことを呼んだのではないのか」
「いや、呼ばねーよ」
「…そうか。では薫か?」
 そう思い、訊ねてみたが、やはり薫でもなかった。
「?」
 確かに誰かに呼ばれたような気がしたのだが、と不思議に思いながら蕾は首をひねった。そして立ち上がるとなにげなしに窓の外の景色をのぞいた。
「!?」
 突然蕾は上着を手に取ると、何を思ったのか、部屋を出て行こうとした。
「おい蕾、この雨の中どこ行くんだ!?」
 驚いた透がとっさに声をかけた。
「すぐもどる!」
 そう言うと蕾はあっと言う間に部屋を出て行ってしまったのであった。


続く