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愁炎華・後編

愁炎華・後編

「おまえがオレを呼んだのか?」
 道路を挟んだマンションの向かい側、電話ボックスにもたれ、うつむき加減で立っていた人物に蕾は声をかけた。
「…蕾?」
 その人物は蕾の方に視線を向けると、小さくつぶやいた。
「どうしたんスか、香さん」
 数分後、蕾はびしょ濡れになった香を連れて戻って来た。
「これは一体…」
 驚いた薫が訊ねたが、香は何も答えようとはしなかった。
「オレ、風呂沸かしてくる」
 透は慌てて浴室へと駆け込んでいった。薫も香の様子に驚きはしたが、その体をタオルでやさしく包み込んでくれたのだった。やわらかい花の香りが一瞬心を和ませてくれ、奇妙な懐かしささえ感じた。
 冷えた体を湯船で暖め、しばらくすると透が用意してくれたシャツとジーンズに身を包み、首からは大きなタオルをぶら下げた香が現れた。そして申し訳なさそうに部屋の隅にちょこんと座り、顔を伏せた。
 何があったのかと薫が香に訊ねるのだが、香は顔を伏せたまま何も言おうとはしなかった。戸惑っている、そんな風にも見えた。
 あきらめた薫は肩を落とし、残念そうに隣の部屋へと引いて行くのだった。
 人の気配に気づき顔を上げると、目の前にあたたかい湯気の中にほんの少しだけブランデーの香りのする、紅茶の入ったマグカップがあった。
「飲め」
 蕾だった。
「薫が嘆いていたぞ。自分では力になれないのかと。まあ、何があったのかは知らんが、話す話さないはおまえの自由だ。とにかく、一人がいやなら今日はここに泊まっていくといい。透もそう言っている」
 マグカップの揺らめきの中に、薫の気落ちした顔がぼんやりと写ったように感じた。
「あのね」
 そう感じたとたん、香は言葉を発していた。
「あのね、私ね、フラレちゃったの」
 香はかすかに笑った。
「ずっと好きだった人がいて、大きくなっていく気持ちをどうしていいのかわかんなくなって、でも気持ちだけでも伝えたかったから、ダメもとで…当たった砕けろって思って告白したの。そしたら本当に砕けちゃった。玉砕しちゃった…」
 エヘヘ、と香は笑った。
「なにか言ったら泣いてしまいそうで、それで何も言えなくて。でも…ここへ来ればやさしくしてもらえるってわかってたから。私、わがままだ…薫さんに悪いことしちゃったね」
 笑顔とともに涙が頬を伝った。
「私、バカだね」
 香はため息のようにつぶやいた。
「ああ、バガだ…たとえおまえが誰かにフラレても、おまえを好きな奴がどこかにいるはずだろう」
 香はフイと顔を上げた。
「…たとえば?」
「…た、たとえば…薫だ」
 蕾は香から顔をそらし、少し口ごもりながら、そう言った。その態度に何かを感じた香は突然クスクスと笑い出した。
「な、なにがおかしい!!」
 人がせっかくなぐさめてやっているのに、笑うなーっと顔を真っ赤にし、むきになって言う蕾に、香は別の涙を流しながらさらにクスクスと笑うのだった。
「ありがとう、蕾」
 そして顔中を笑顔にし、やはりここに来てよかった。と心から思ったのだった。


 事務室の窓口でこちらに手を振っている生徒が一名いた。透であった。
「どうしたの、透。何か用?」
「あー、実は今晩飲み会やるんスけど、香さんもどうっスか?」
「飲み会 あーのーねー、あんた自分が高校生だってこと、忘れてない?」
「いや、まー、そう堅いこと言わずに、たまにはパーッとやりましょうよ。パーッと。それに香さんの手料理も食べたいしぃー」
 と料理の事を言われると、食べ盛りの透たちに食べさせたいという香の思いと、少しくらいならいいか、という臨機応変さからついつい承諾してしまうのだった。
「仕方ないわねぇー。じゃあ、放課後買い物に付き合ってくれる?」
 仕方ないわねぇー、と言いながらも自らも喜ぶ香であった。
「ところで、何か食べたいもの、ある?」
「オレ、アイスがあればなんでもいいっス!」
「あ・そう。じゃあ、あんただけアイス1リットルね」
「げーーーっ!?」
 授業の合間の休み時間に、廊下で盛り上がる香と透であった。


 思案の結果、酒の席には数種類の中華料理が並べられた。もちろん紹興酒もあった。
 一通り料理を並べ終えた香が、後ろ手にニコニコとほほ笑みながらキッチンから現れた。
「じゃじゃーん!」
 自慢げに後ろから取り出したのは一本の一升瓶だった。
「ふふふ これねー『越乃寒梅』っていうお酒なの。こうゆう場がもてたら飲もうと思ってとっておいたの」
 香は一升瓶をテーブルの真ん中にドンと置いた。
「ああ、『越乃寒梅』といえば幻のお酒。よく手に入りましたね」
 薫が感心して訊ねた。
「そうなのよー。すごいでしょー」
 と香は自慢げに話した。
「なんだこの酒は。まるで水のようではないか」
 いつの間にか蕾が一升瓶をラッパ飲みし、ぼやいた。すでに中身の半分はなくなっていた。
「きゃぁーーーーーっ!!なにやってんのよぉー蕾!?もう、信じらんないー。このお酒高いのよーっ!!」
 香は蕾から一升瓶を取り上げると、ナイアガラの滝のような涙を流した。
「あんなお酒の味のわからない奴なんてほっといて、薫さん一緒に飲みましょうね」
 そしてウワバミ蕾を袖にして、香は薫と晩酌をはじめた。
「私ってね、実はアルコールはあんまり飲めないのよ。カクテル系ならまあまあいけるんだけどぉ。でもね、このお酒だけは大丈夫なの。口当たりもよくて匂いもない。初めてお酒が美味しいって感じた一品なの」
「『上膳水の如し』とはよく言ったものですね。本当に口当たりがよく、まろやかなお酒でございます」
「でしょー」
 時間が経つにつれ、次第に香の顔は赤らんで、呆然としだした。薫は、香とほぼ同じだけの量のお酒を飲んでいたにもかかわらず、頬をうっすらとピンク色に染めただけだった。
「私、ちょっと風にあたってくるねー」
 ユラリと立ち上がると、香は足元を確実に踏み締めるように一歩一歩、ベランダの方へと歩いて行った。その後ろ姿はなんとも妙に滑稽だった。
 ベランダの手摺りに両手を乗せ、顔を埋めながら夜風にあたっていた。空気は澄んでいて、白い月が煌々と輝いていた。そんな夜空をふと眺めていると、はるか昔、この空を飛べたような、そんな妙な気分に陥っていった。
「いつまでそこにいるのだ、かぜをひくぞ」
 いつまでたってももどってこない香を気にしてか、蕾が現れた。
「ふふふ」
 まだ完全に酔いの抜け切っていない香が意味ありげに笑うので、蕾は一歩後ずさった。
「さっさと戻らないと酒も料理もなくなってしまうぞ」
 と踵をかえそうとしたときだった。香が蕾の服の裾をつかんだので、蕾は驚いて振り向いた。
「私、まだあいつのことが好きだよ。私をフッた奴。だってすごく好きだったんだもの。だからそんなに簡単に嫌いになんてなれない。でも、フラレても…あいつを好きだったこと、後悔はしてない。よかったと思ってる。だって誰かを好きになるってすごく素敵なことじゃない?だからあいつより、もっと素敵な人を見つけることにしたの!いつまでも同じところで足踏みしてても仕方ないもんね。前向いて歩かなきゃ、出会える人とも出会えなくなっちゃう」
 香は再びベランダごしに月を仰いだ。
「…本当のたった一人に出会うまで、多分色んな人を好きになると思うの。そのたびに同じ思いをすると思う。でもね、後悔はしない。だって、悲しいことがあるから楽しいことがあるんだもの。辛いことがあるからうれしいことがやってくるんだもん。悲しいことを知らなければ、小さな幸せがやってきてもきっと気づくことすらできないと思う。辛いことがなければ楽しいことも感じることができないと思う。それって損よね。だから私が誰かにフラレても、その先にはきっと何か楽しいことがあるはずなの。きっとフラレてなければ気づかなかった楽しいことが。そう、例えば今日の飲み会とか…」
 香はニッコリとした。
「毎日嫌な事だらけ。でも私、今が幸せだからすべての過去に感謝してる。どれだけ辛いことがあっても、その過去がなければ今の幸せな自分は存在しないんだから。蕾たちと出会えたこと、それもきっといろんな過去があってこそなの」
 蕾はふと透と出会った時のことを思い出していた。きっかけはなんだったろう…。なぜ透と出会うことができたのだろう。そして透と出会ってからの自分、今の自分はどうだろう…。いろんな過去があってこそ成り立っている現在。それを思うと自然と口元に笑みがこぼれた。
「…なーんてね」
 香は照れ臭そうに顔を赤らめ、蕾の背中をバンバン叩きながらおおげさに笑ってみせた。そして何を思ったのか、押し倒さんばかりの勢いで蕾を抱きしめた。
「愛してるよ~蕾」
 ふいをつかれて香に抱きつかれた蕾は一瞬硬直したが、すぐに我を取り戻し怒鳴った。
「うわーっ!なにをするんだ、この酔っ払いがぁ!」
 あんたに言われたくないわよ。と香は笑いながら蕾のことを素直に離した。
「あ、そうだ。今度蕾にもケーキ作ってきてあげる。形は悪いんだけど職場ではなかなか評判いいのよ」
「オレはケーキなんか食わんぞっ」
 香に連れて行かれたケーキバイキングのことを思い出して、蕾は抵抗した。
「そんなこと言っちゃ、イ・ヤ」
 香の態度にコケそうになる蕾であった。
 そんな二人の様子を暗闇から窺うものがあった。
「この娘、時折妙な花気を放ちおる。人間のものとは少し違う…それにあの小僧、御大花将であったとは」
 黒い影は何か恨みでも持っているかのように蕾を睨み、顔を歪ませた。しかし今はその時ではないと悟り、それはおとなしく闇の中へと引いて行くのであった。
「おーい、なにやってんだよー。はやくもどってこないと越乃寒梅なくなっちゃうぞー」
 透がベランダに顔を出した。
「えっ!!」
 慌てた香は、そりゃ大変だぁーと、あたふたと部屋の中へと戻って行った。そのあとを蕾がゆっくりと従った。
「あ、そうだ。お口直しのレモンシャーベットがあるのぉ」
「え、本当っスかー!」
 透に笑みを振り撒きながら、香は再びキッチンへと消えて行った。
 陽気な者たちの宴は、この後日付変更線を越えても続いていたのであった。


 お気に入りのハーブティーをいれながら、香は外していた香玉のペンダントを手に取った。
「不思議…なんだかとてもなつかしい香りがする」
 いつまで経っても衰えることのない香りに奇妙な懐かしさを感じ、心の奥で思いを馳せながら、香は再びそれを身につけた。
 カタリ。
 ふと窓の外で物音がした。なんだろうと思い、窓を開け外の様子を窺ってみるが、シンと静まり返った町並みに、白い月が影を落としているだけで、何も変わった様子は見当たらなかった。
 しかし窓を閉めようと手を伸ばした刹那だった。暗闇から無数の触角のようなものが、香の体を突き刺さんばかりの勢いで襲いかかってきたのだった。


「なんだ?」
 部屋の片隅でファミコンに夢中になっていた蕾が、急にその顔を上げ、透に訊ねた。
「えっ、なに?」
 そんな蕾に反対に透が不思議そうに訊ねた。
「いまオレのことを呼んだのではないのか?」
 さらに不思議そうな顔で蕾が透に訊ね返した。
「えー、呼ばねーよー?」
「では、薫か?」
「いえ、私は何も…」
「……?」
 不思議に思いながら、蕾は一瞬考えた。確かに名前を呼ばれたような気がしたのだ。そう、こんなことが前にもあったような気がする。あれは雨の降った夜ではなかっただろうか?不審に思いながらも窓越しに外を窺うが、しかし変わった様子は何一つとしてなかった。
(蕾…!)
 再び自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。聞き覚えのある呼び声…。
「まさか!?」
「蕾、どうしたんだよ」
 何かを感じ、勢いよく部屋を飛び出そうとした蕾に、透はとっさに声をかけた。
「透、東雲に連絡してくれ!奴が現れたと!」
 上着を羽織りながら蕾は叫び、玄関へと走った。
「蕾さま、私もご一緒に!」
「薫、おまえはここにいろ!」
 後を追おうとした薫を強く制止し、蕾は瞬く間に部屋を後にした。
「え 何?一体何なんだよぉー」
 状況が分からず、透はただあたふたするだけだった。薫は蕾に来るなと言われたにもかかわらず、すぐさま蕾の後を追って出て行ってしまった。
 わけがわからず、しかし蕾に言われたとおり、透は東雲に電話を入れた。

「…ああ、うん。そうゆうわけだから」
 受話器を置いた次の刹那だった。
「えっ!?」
 何かの気配に気づいた時にはすでに遅く、透の体は背後から忍び来た黒い物体にすっぽりと包み込まれた後だった。 夜の街中を香のマンションに向かおうとした蕾だったが、蕾は香のマンションがどこにあるのか、まったく知らなかった。
「!?この香りは…」
 しかし、しばらくも走らないうちに蕾は薫の香気を感じとり、立ち止まった。
「薫…?」
 自分の後を追って来たのかと、辺りをキョロキョロしてみたが、薫の姿を見つけることはできなかった。
「香の香玉か!」
 そのことに気づくのにさほど時間はかからなかった。蕾は風に運ばれてくる、抑えられてはいるが、よく知った薫の香気を頼りに、さらに夜の街を走り続けた。
 そこは都市には珍しい、大規模な公立の自然公園だった。幾種類もの季節の花や木々がたくさん植えられ、人工の川や池もあり、ジョギングコースやハイキングコース、アスレチックのできる小さな森もいくつかあった。そしてその一角、そこには藤棚があった。しかしその藤棚はどことなく異様であった。なぜなら、幾本もの藤葛が奇妙に絡み合いながら、空に向かって伸びていたからだ。
「香!?」
「蕾!」
 藤棚の上、太い蔓に搦め捕られ、その身を取り込まれたかのような香の姿を見つけ、蕾は思わず叫んだ。
「ようこそ、御大花将どの」
 暗闇の中に太く、低い声が響いた。
「!?」
 それは香の背後から、影のように姿を現した。数日前、香を襲った怪物であった。黒く長い髪の一本一本は、よく見るとまるで針でできているかのように鋭利に見え、その頭上には白銀の角が二本、突き出ていた。そして吊り上がった目は鋭く、赤みを帯びていた。不思議なことに全身黒ずくめのそれは、微かだが天界の花の香りがした。
「何者だ!」
 邪悪な気と天界の花の気を持つ敵に対して、蕾は身構えた。
「我が名は御大花将鬼伯」
「なに!?」
 蕾にはわけがわからなかった。蕾を御大花将と認識しておきながら、怪物は自らをも御大花将と名乗ったからだ。
「はるか昔、この身は天界にあった。次期御大花将の座も約束されていた。私は計り知れない程の力を持っていたからだ。だがそんな私の力を恐れた時の帝は、この私をあろうことか、怪魔界に堕としたのだ!」
 鬼伯は憎しみをたぎらせた目を蕾に向け、噛み締めるように語った。
「ふん、力の強弱だけで堕とされた者などいるものか」
 吐き捨てるように蕾は言った。力が強すぎて天界から堕とされるとしたなら、自分の意志とは無関係に、蕾自信がとうの昔に堕とされていたに違いなかったからだ。
「あと少しで聖仙郷を我が手に治められたものを!」
「!」
 その一言で、蕾はなぜ鬼伯が怪魔界に堕とされたのかを一瞬にして悟ったのだった。
「力を奪われ、長い時間を怪魔界で暮らし鬼と成り果てた私は、とうとう地上に出た。そしてわずかながらも花気を宿す人間共を襲い、再び力を蓄えた。花仙や花精を襲えば力の回復も早かっただろう。しかし天界の奴らに悟られてはならぬ。私は密かに人間を襲い続けたのだ。そして私の力はほぼ充足した。今宵、お前の限りなく豊かで高貴な花気と、この娘の炎の気とを手に入れられれば、私は真の御大花将になることができるのだ。いや、御大花将どころか、天界一の力をこの手にすることができるだろう」
 なんだか変だ。と蕾は思い始めていた。鬼伯の語っていることが事実だとしても、何だか理解しがたい。そう、狂っているとしか思えなかったのだ。
「お前の力をこの手にすれば、私は最高の花将となり、娘の炎気を手にすればすべての花花を焼き尽くすことができるのだ」
 その言葉に蕾は疑問を感じていた。香の炎気とは一体何のことなのか?蕾には鬼伯の言う意味が一部理解できなかった。
「貴様、香をどうするつもりだ」
 蕾は一歩ずつ、じりじりと鬼伯に迫って行った。
「もちろん、力を吸収するために死んでもらう」
 鬼伯はニヤリと口元を歪ませた。
「させるか!」
 動こうとした時だった。ほんのわずかだが、鬼伯の動きの方が速かった。鬼伯の掌から放たれた雷光のような衝撃波が蕾を襲ったのだった。
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
 それを躱すことは蕾にとって、何ら難しいことではなかった。しかしその直後、蕾は驚きのあまり目を見張るのだった。
 避けたはずの衝撃波が、香を襲ったのだった。
「なに!?」
「フフフ…お前が私の攻撃を避ければ、それは地中を伝い、この娘に帰ってくる。この娘を助けたくば、素直に私の攻撃を受けるしかないのだよ!」
 言うと同時に第二の衝撃波が蕾を襲った。
「うわぁっ!」
 避けられないはずのない攻撃を、蕾はとっさに全身で受け止めていた。
「ほう、正直なものだ」
 自分の言葉を直ぐさま信じ、盾になった蕾を感心するように鬼伯は言った。
「私の言ったことは嘘かも知れぬぞ。お前の力を欲するための罠かも知れぬぞ」
 ドンッ・ドンッ・ドンッ!
 言いながら、鬼伯は衝撃波を打ち続けた。
「ぬかせ!」
 激しい衝撃に顔を歪めながらも、蕾は何の疑いも持たず、自らの体にそれを受け続けた。
「やめて!蕾、よけなさい!あんたによけられないはずないでしょう 私なら大丈夫だから!お願い、よけてぇっ!!」
 藤の蔓に体を束縛されながらも、香は精一杯叫んだ。
「ふん、この程度の攻撃でなんとかなるオレではないわ」
 たとえ自分が不利な立場にあっても、憎まれ口を忘れない蕾であった。
「ならば、これはどうだ?」
 鬼伯は自分の真下、地面に向けて、衝撃波を放った。バリバリと音をたてて雷光が弾け、地面をえぐった。
「うわーーーーーっ!」
「!?」
 それは地中を伝い、のたうちまわる蛇のように藤棚の中へ躍りかかると、もう一人の捕らわれ人へと襲いかかったのだった。なんと、絡み合う藤葛に隠れて気づかなかった所、藤棚の下には透が捕らわれていたのだった。
「透!」
 蕾と香は同時に叫んでいた。
「蕾!何が起こったんだよ。これって一体…」
 藤の牢獄に捕らわれた透と、蔓に束縛された香。二人も人質に取られた蕾は一瞬怯まずにはいられなかった。
「手も足も出ない、とはまさにこのことだな」
 ハハハハハ。と鬼伯は大きな声を上げて笑った。
「蕾、戦いなさい!こいつの言うことなんて聞いちゃだめ!こんな…あっ、きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
 言い終わらないうちに、香は絶叫した。
「うわぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 同時に透も絶叫する。
「やめろ、やめてくれ!その二人に手を出すな!」
 蕾も、ある意味では絶叫していた。
「そうゆうわけにもいかないのだよ」
 鬼伯は蕾を睨むように見下ろすと、再び蕾に向けて衝撃波を放ちはじめた。それは引っ切りなしに蕾を襲い、蕾は両腕を交差しながらそれを受け止めるのだが、激しさのあまり、今にも倒れそうな状態だった。
「やめて、それ以上蕾を傷つけないで…」
「それ、まだまだか?」
 衝撃波に少しぐったりとした香のつぶやきは、鬼伯には届いてはいなかった。
「蕾ーっ!」
 藤の牢獄の中で透が叫ぶ。香は体を締め付ける藤の蔓を両手で強く握り締めていた。
「もうすぐ私は真の御大花将になるのだ!」
 鬼伯は蕾を攻めることを一向にやめようとはしなかった。
「やめて、お願い…」
「くうっ!」
 衝撃波に弾き飛ばされ、蕾の体は強く地面に叩きつけられた。
「蕾っ!!」
 透がありったけの大声で叫んだ。
「そうれ、これで最後にしよう!」
 鬼伯が両手に力を蓄えた時だった。
「やめてーっ!!」
 叫んだ香の体が一瞬眩しく輝いた。そして、体からはゆらゆらと立ちのぼるものがあった。それと同時に香の胸元のペンダントが一瞬のうちに弾け、燃え尽きた。そしてブチブチと鈍い音が辺りに広がった。それは香が自分の体に絡み付いた藤の蔓を引きちぎる音であった。
「そんなばかな!」
 ほとんど木と化した太い藤の蔓を素手で引きちぎるなど、人間にできることではなかった。
「許さない。蕾を傷つける者は…」
 香の体から立ちのぼっていたのは、金色に輝く炎だった。その炎は、たちまちのうちに藤棚全体に広がり、藤棚を飲み込むようにすっぽりと包み込んでしまった。
「透!」
 炎の中には透がいた。しかし、その炎は透はおろか、藤をも焼くことはなく、それどころか奇妙にうねった藤の姿を本来の正常な姿に戻したのだった。
「あ、あの炎は…ま、まさか…!?」
 鬼伯はよろりと一歩後ずさった。
 ゆらめく金色の炎の中に鬼伯を睨みつける香がいた。陽気だったり、泣いていたり、そんないつもの香ではなく、大切なものを傷つけられ、怒りをあらわにした、そんな目をした香がそこにいた。
「蕾さま!」
 そこへ、蕾を追ってきた薫と東雲が駆けつけ、倒れている蕾に手を差し伸べた。
「これは、一体どうしたというんだね」
 傷ついた蕾、捕らわれた透。そして今、対峙する黒ずくめの鬼と金色の炎を纏った香。東雲にはわけがわからなかった。
「ああっ、あの炎は!」
 香の纏う炎を見て、薫が悲鳴にも似た声をあげた。
「あの子を傷つける者は許さない。あの子はとても優しい子なのよ。だからあの子が傷つけば、たくさんの人達が悲しむの。そんなあの子を傷つけるなんて、絶対に許さない」
 蕾に接する薫、東雲、透の笑顔が香の脳裏をよぎっていた。そして態度からは裏腹な蕾の優しさ…。
「本来、天地の花の者たちを守護するべき者が、聖仙郷を攻めようなどと、お前のような愚かな者が、御大花将になんてなれるはずがない。その身、怪魔界に堕とすのさえ生ぬるいわ!お前こそが私の業火に捲かれるべき者なのよ!!」
 ゆらりと手を差し伸べた香は、ひるむことなく鬼伯に近づいていった。
「や、やめろ。さわるな!その手で私にさわるなっ!」
 鬼伯の顔面は蒼白で、本気で香を恐ろしがっているようだった。
「一体どうしたというのだ」
 一変した鬼伯の態度。そして香の炎。一体何が起こったのか、蕾にはわからなかった。
「…まさか香さんが…」
 薫はよろよろとその場にへたりこんだ。
「やめろーーーーーっ!!」
 香は鬼伯の両の二の腕をがっちりと掴んだ。
 ゴォッ!!
 香の触れたところから、金色の炎が勢いよく巻き起こり、あっと言う間に鬼伯を包み込んでしまった。
「まさか…焔燬(えんき)の生まれ変わりが、下界にいたとは…」
 炎に捲かれながら、鬼伯はのたうちまわった。
「うわぁぁぁぁぁ…っ!」
 そしてついには跡形もなく燃え尽きてしまったのであった。
「一体なにがおこったんだ?焔燬とは何なのだ…?」
 焔燬とは何者なのか、なぜ香が焔燬と呼ばれたのか、蕾にはさっぱりわけがわからなかった。
 香は鬼伯の最期を見届けると、一気に力が抜けたかのようにその炎はふっと消え、その場に倒れ込んだ。
「蕾ーっ!」
 鬼伯の消滅とともに炎の消えた藤棚の牢獄から抜け出した透が、蕾の元に駆け寄った。
「透、大丈夫だったのか!?」
 蕾は自分の身よりも透のことが心配だった。しかし炎に包まれたはずの透だったが、不思議なことに火傷ひとつしてはいなかった。
「オレはなんともないよ、お前こそ大丈夫なのか?」
「オレは大丈夫だ。それより香を…」
 透の無事を確認した後、少し離れたところでぐったりとしている香を見て、蕾はつぶやいた。傷つき、動きづらい蕾に変わって透が駆け寄り、抱き起こした。
「香さん、大丈夫ですか!?」
 香の体からは、先程の炎はすっかり消えていた。
「大丈夫。ありがとう、透」
 弱々しいながらも、香は自力で体を立て直した。
「香」
 そこへ蕾がよろよろと近づいてきた。そして香に手を差し伸べようとした時だった。
「蕾さま!」
「だめ!」
 薫と香がほぼ同時に叫んでいた。
「…っ痛!」
 香は蕾の差し伸べられた手を避けようとしたのだが、蕾の、ほんの指先が香の体に触れてしまった。
「火傷…?」
 蕾の指先がわずかに赤く焼けていた。
「蕾さま、香さんに触れてはなりません。いかにあなたさまでも、焔燬の炎に触れてはただではすみません!」
 悲しそうに、しかし蕾の身が心配で、薫は蕾の体を自分の方へ強く引き寄せた。
「なぜだ、焔燬とは一体何なのだ。香と何の関係があるというのだ!?」
 蕾は薫の手を振り払い、再び香に近づこうとした。
「近寄らないで!あなたたちを傷つけたくないの。お願いだから、私に近寄らないで!」
「どういうことだ。なぜオレは近寄れない?透はお前に触れているのに」
 蕾は不思議でならない、といった面持ちだった。
「私、思い出したの。何もかも…」
 香は微かに震える自分の体を抱きしめた。
「私の炎は天界の花にのみ有効なの。触れただけでそのものを炎に包んでしまう…だけど、ほら、下界のものである藤の花や透の体には何の影響も及ぼさない…。この力であなたを守れたこと、うれしく思ってるわ。でも、こんなことになるのなら、いっそこの身も炎に焼かれてなくなってしまえばよかったのに…!」
 香の頬を涙が一筋こぼれた。
「なにを言ってるんだ。オレには何がなんだかさっぱりわからない。薫、お前は何か知っているのか 焔燬とは何だ、香と何の関係があるんだ。たのむ、教えてくれ!」
 薫は返答に困っていた。
「蕾…、『焔燬』の記憶が甦った今、私は天界の花の方たちを脅かす存在でしかないの。あなたたちは私に触れられない。私もあなたたちに触れることができない。触れたら最後、あなたたちも鬼伯のように跡形もなく燃え尽きてしまうの」
 香は透の手を借りて、立ち上がった。
「薫!」
 蕾は正確な答えを薫に求めた。
「蕾さま、焔燬とは元は天界の花仙でごさいました」
 薫はひとつため息をつくと、静かに話始めた。
「なに!?」
「しかし、その力ゆえ、天界に居ることを許されず、下界に堕とされたと聞きます。焔燬のその力は天界の花花を焼き尽くす炎でしたので、焔燬の存在自体が天界にとっては脅威だったのでございます」
「しかし、香は人間だ」
「下界に堕とされた焔燬の力と記憶は、長い時間の中、しだいに薄れていったことでしょう。おそらく香さんはその焔燬の血を受け継いだ者。そしてなんらかの理由でそれが強く表にでてしまったのだと、私は思います」
 薫は蕾から少し顔をそらし、辛そうに言った。
「蕾、人間だって内に秘められた能力が、ある日突然目覚めてしまうことだってあるんだ。受け継がれた血や遺伝子の中に眠り、何十年何百年経とうと、親やその親、何代さかのぼっても現れなかった兆候が、突然自分の子供に出ることもある」
「香がそうだと言うのか」
「おそらく」
 わずかながら事情を察した東雲は淡々と言ってのけた。その態度に蕾は苛立ちを隠せなかった。
「蕾、今の私は天界の花の香りの結晶さえも、身につけることができないのよ。ほら、せっかく薫さんにもらった香玉のペンダントもダメにしちゃった」
 香は少し悲しそうに目を伏せた。
「……」
「今までありがとう。短い間だったけど、あなたたちに出会えて本当によかった。うれしかった」
 香は精一杯の笑顔でそう言った。
「ちょっとまて…」
 それは、蕾にはまるでこの世の別れのように聞こえてならなかった。
 香の体の回りを再び金色の炎が包みはじめ、体が炎の中に溶け込むようにだぶって見えた。
「ありがとう…」
 その笑顔が一瞬炎に包まれ、かき消えた。あとには呆然とする蕾と、それを見守る薫と東雲、透の立ち尽くす姿だけが夜の公園の片隅にあった。


 翌日、香が学校にも現れなかったという報告を透から聞いた蕾だったが、意外にも何の反応も示さなかった。考えがまとまらない。そんなふうにも見えた。
 それぞれに複雑な思いを抱きながら、再び夜を迎えた。

 ピンポーン。
 マンションのチャイムが鳴った。気力もなくゆらりと動くと、香は玄関の戸を開けた。そこにはかすかな花の香りをまとう見知らぬ青年が一人、立っていた。
「あなたは…?」
「聖仙郷花士軍、彩八将が一人、藍影にございます」
 それは物悲しい表情を浮かべた藍影将軍であった。
「彩八将…すると蕾の…」
「はい。錦花仙帝さまのお召しにより、お迎えに参り申した」
 香は一瞬、信じられない、と顔を強ばらせた。
「錦花仙帝さま?錦花仙帝さまが私を…!?そんな、私が天界へ行けば、天界の花花がどうなるか、帝であるあの方はよくご存じのはず。なのに私に天界へ来いと?そんな…」 
 香は体を震わせた。
「いいえ、私は天界へは行きません。行けません。下界でこそこうしていられますが、天界では私のいる場所などありはしないのですから。藍影将軍、あなただって私に触れればどうなるか…」
「これを…」
「?」
 それは蕾に結界を張る力を封じ込めた、桔梗に似た青い一輪の花だった。
「錦花仙帝さまから賜りました。焔燬どののお力はすべてが目覚めたわけではございません。ゆえにこの花に封じ込めた力で、焔燬どのの回りだけを下界と同じ状態にすることができ、一時的ではありますが力を封印することができまする」
「錦花仙帝さまが私にどのような御用があるのかは存じません。しかし私は行けません」
 香はなんとしても天界行きを拒もうとした。
「どうか、我らが上将の御ためにも…!」
 藍影将軍は膝をおった。
「蕾の…ため?」
 一瞬、ドキッとした。下界の花には何の影響もない力とはいえ、下界にいる天界の花仙である蕾たちには有効であった。故に触れることすら許されない。
「そう…ね、蕾が下界にいる以上、私は下界にもいてはならない存在なのね。私は蕾に害を及ぼす存在。蕾にも薫さんにも、もう会うことすら許されない…。わかりました。蕾のためなら、私の存在くらいなくなったって平気。それこそ私の願っていたこと。だって私にとっては、私が蕾を傷つけることの方が恐ろしく、哀しいことだから…」
「焔燬どの…」
 藍影は何か言いたげだったが、喉の奥で言葉を詰まらせてしまった。


「なんだと!なぜ母上が香を…!?」
「と、とにかく、上将も急ぎ天界へお戻りになられますよう、錦花仙帝さまからのお達しにございます」
 蕾のもとには曙橙がやって来ていた。
 今朝、日が昇るのと同時に薫が天界へと向かった。鬼伯のこと、焔燬のことを報告するためだった。そして今、錦花仙帝からの呼び出しを蕾が受けていた。
(母上は香をどうするおつもりなのだ。まさか…)
 一抹の不安を抱きながらも蕾は芙蓉門へと向かい、さらに天界へと向かったのだった。

「遅かったですね」
 その言葉に、蕾は下げていた顔を勢いよく上げた。
「母上!一体香をどうなさったのですか!?」
 最初から噛み付かんばかりの蕾の勢いに対し、錦花仙帝は常に冷静だった。
「記憶を封じました」
「!?」
「あれの力を鎮めるには、記憶を封じるしか方法はありませんでした」
 錦花仙帝は少し残念そうに目を伏せた。
「しかし、下界では意味のない力なのではないのですか!?」
 そんな錦花仙帝に、蕾はさらに食ってかかった。
「たしかに、下界の花花には影響のない力とはいえ、そなたたちが下界にいる以上、焔燬をそのままにしておくことはできません。蕾、あれの力が目覚めたのは、恐らくそなたたちと接触したのが原因。そして悪鬼に襲われた際、薄れた血の中に眠っていた記憶と力が甦ったのでしょう」
「な…まさか、オレのせい…?オレが下界にいるから…?」
「蕾…」
 蕾は拳をつくると、力いっぱい握り締めた。
「しかし、オレとて炎は使います。なのになぜ香の炎は封じられなければならないのですか!?」
「悪しきものを祓い清めるそなたの炎とは違い、あれの炎は特別なのです。御大花将であるそなたとて、あれの手に触れればたちまち燃え尽きてしまうことでしょう。あれの炎はこの天界を焚滅させるほどのものなのですよ」
「それで下界へ堕とされたのですか」
 蕾のイライラが徐々につのりはじめていた。
「いいえ、下界へ降りたのは本人の意思。あれが生まれた時、その体はすでに炎に包まれていたとか。そしてその母はあれの炎に焼かれて死んだそうです。幼いころはその力も表に出ることはありませんでしたが、成長するにつれ本人の意思とは関係なく、触れたものを炎に捲いていったのです。しかし、あれの力はすべてが目覚めたわけではありません。それは多分、あれの生まれが西で秋の月だったからでしょう。炎は本来、方角は南、季節は夏ですからね」
「ならば、なぜ記憶を封じなければならないのですか そこまでする必要があるのですか オレは御大花将、天地の花花、すべての花仙たちを守護するのがつとめ。焔燬が花仙である以上、たとえどんな力を持っていようとも、オレは焔燬を護らねばなりません。オレなら大丈夫です!たとえどんな炎であっても!!」
 理屈を並べ立て、だだをこねる子供のように、蕾は怒鳴った。そんな蕾を見て、錦花仙帝は呆れたようにため息を一つついた。
「蕾…そなたのためだけではないのですよ。たしかに、下界での生活には差し障りのない力ではありますが、焔燬としての記憶があるかぎり、あれは苦しみ続けなければなりません。あれは、自分がそなたたちを傷つけるのではないかと、ひどく恐れていましたよ」
 一向にわかろうとしない蕾に、錦花仙帝は今度は深くため息をついた。
「香はそんな弱い心の持ち主ではありませぬ!!」
(辛いことがあるから、うれしいことがあるの。悲しいことがあるから、楽しいと感じることができるの。今が幸せだから、すべての過去に感謝してる…)
 蕾の脳裏に香の言葉が蘇った。
「人間の心はとても脆いものなのですよ。人の心に焔燬の記憶はあまりにも残酷すぎます」
「くっ…」
 記憶を封じることにより、力をも封じるという法をとった錦花仙帝。それに対して、激しい憤りを感じずにはおられない蕾。記憶を封じれば、香は自分たちのことも忘れてしまう。しかし、そうしなければ、逆に香の心が壊れてしまう恐れがあった。蕾は、他にどうする術ももっていなかった自分が無性に腹立たしくて仕方なかった。
 宮殿を後に、蕾は香がいるという場所に向かった。

 天界の花園の中に、花花からもようやく受け入れられ、どんな夢を見ているのだろうか、微かだが幸せそうな笑みを浮かべ、眠っている香の姿があった。蕾はその傍らに佇んだ。なんともやるせない、そんな表情を浮かべながら。そしてそんな蕾のことを知る由もなく、香はただただ眠り続けた。

 何もかもが静まり返った夜空に、いくつもの花びらが舞ったように見えた。
 蕾はベットの上にゆっくりと香をおろすと、まるで見納めであるかのようにじっと香を見つめ、辛そうに目を伏せた。そして意を決したように踵を返すと、入って来た窓からすっと夜空に飛び立ったのだった。
 少し開け放たれた窓から、そっと夜風が忍び込んだ。香の意識が虚ろだが目覚めていた。そして夜風が運んできた優しい残り香に気づくと、ゆっくりと唇を動かした。
「……」
 声にはならなかったが、それは確かに、誰かの名前を呼んでいた。
 香は再び深い眠りへと落ちて行くのだった。

「薫さん、天界へ行ったきりまだ帰んないの?」
 透は昨夜からふてくされたように機嫌の悪い蕾の顔色を窺いながら、つぶやいた。
 昨日の今日である。蕾より先に天界へ昇った薫が、まだ下界に戻って来ていなかったのだ。
 ピンポーン。
と、そこへチャイムが鳴った。
「あ、薫さんかな」
 透が慌てて玄関へ走って行った。
「東雲…」
 果たして、それは蕾の事を心配して現れた東雲だった。
「なんだ、お前には用はないぞ」
 しかし蕾は仏頂面ですぐにそっぽをむいてしまう。
「おやおや、ごあいさつだね。多分君が落ち込んでるんじゃないかと思って、心配してやって来たというのに。社交辞令も言えないとは」
「お前に心配などされるおぼえはない!」
「相変わらずだね。でもね、蕾…」
「うるさいっ!お前の話しなど聞く耳持たん!気分が悪くなる、さっさと帰れ!」
「これは…随分とご機嫌ななめだね」
 ため息をつき、肩をすくめながら透の方をちらと見た。
「蕾、聞きなさい。君は多分勘違いを…」
「うるさいうるさいうるさいっ!!」
 蕾が東雲につかみかかろうとしたときだった。
 ピンポーン。
 再びチャイムが鳴った。
「あ、今度こそ薫さんだ」
 さらに慌てて透が玄関へと走った。薫に蕾と東雲の間に入ってもらわねば、と。
「あ…」
ドアを開けてみると、しかし今度も薫ではなかった。
「ちょっと、何してんのよあんたたち…」
 東雲に馬乗りになった蕾を見て、呆れたようにつぶやいたのは、果たして香であった。
「!?」
「ケーキ作ってきたよ。蕾と約束したやつね」
 ケラケラといつものように笑う香を見て、蕾は茫然としていた。
「おまえ…」
「な、なによ。鳩がまめ鉄砲食らったみたいな顔して…」
 不思議そうな顔で香のことをじっと凝視する蕾に、香はたじろいだ。
「あのね、抹茶ケーキなの。甘さ控えめで、あんこと抹茶クリームがすごく合うの あ、透!何してんのよ!」
 香は箱からケーキを取り出し、つまみ食いしている透を見つけ、ゲンコツをお見舞いした。
「やりぃ、いつもの香さんだ!」
「な、何言ってんのよ透」
 殴られて喜ぶ透を見て、香は不思議そうに呆れた。
「蕾、ケーキ切るからコーヒー入れてくれる?あ、私はもちろん紅茶ね」
 香はケーキの箱を持ってキッチンに消えて行った。
「だからぁ、人の話を最後まで聞かないから」
 呆れたように東雲が口を挟んだ。
「君は勘違いをしているんだよ。いや、早とちりかな?それとも動揺していたから気が付かなかっただけなのかな?」
「ど、どうゆうことだ」
 不本意ながらも蕾は東雲の話を聞くはめになってしまった。
「たしかに、錦花仙帝さまは彼女の記憶を封じられた。しかしそれは香さんの記憶を封じたわけではなくて、“焔燬"の記憶を封じられただけなのだよ」
「そんなことはわかっておる!」
「わかってないね。君は錦花仙帝さまが焔燬の記憶を封じたことで、本来の香さんの記憶もなくなってしまうと思っていたんだろう?目覚めた焔燬の記憶が消えたことで、香さんが自分たちのことを忘れてしまうんじゃないのかと、そう勘違いしていたんじゃないのかい?」
 東雲にそう言われて、蕾は初めてハッとなった。そしてたちまち赤面した。
「図星だね」
「うるさいっ!」
 痛いところを突かれて、蕾は返す言葉がみつからなかった。
「香さんの記憶はちゃーんと残っているよ。封じられたのは“焔燬"であって香さんじゃあない。先走りは君の悪い癖だね」
 内心ホッとしたにもかかわらず、素直でない蕾は照れ隠しに、ギャーギャーと東雲にまくし立て、つかみかかった。と、そこへ香の一声が飛んだ。
「なにやってんのよ蕾。早くコーヒー入れてよ!」
「ほらほら、早く入れなさい」
 と東雲が調子に乗る。
「東雲ぇ~っ!!」
 東雲に今しも噛み付かんばかりの蕾の襟をひきづり、香は再びキッチンへと消えて行った。その後、東雲が蕾からどういう仕打ちを受けたのか、数時間後に天界から戻った薫に語る者は誰もいなかった。


おわり