ka-rin-blog.cocolog-nifty.com > novel BUD BOY

海鳴り

海鳴り

 春が終わる頃になると、いつも耳の奥で海鳴りが響いていた。それは誰かの泣き声のように悲しみを帯び、まるでその者を強く責めているかのように心の奥に押し寄せた。

「やっほー、お寿司買ってきたからみんなで食べよー」
 土曜日のお昼前、透のマンションのチャイムを鳴らしたのは、両手に寿司折りの入った袋を下げた香だった。
「今日ね、うちのマンションの近所でテイクアウトオンリーのお寿司屋さんがオープンしたのよ。しかも今日は全品半額!思わず買っちゃった!」
 クスクスと嬉しそうに笑う香は、当然のように透のマンションに上がり込んだ。
「香さん、そうゆうの好きですよね~」
 嬉しい反面、ちょっと呆れ気味に透は笑った。
「うん。だってなんか楽しいじゃない?しかも半額よ!?あ、透、お茶入れてくれる?温かいのね」
 そう言うと香はさっさとリビングのテーブルの前に陣取り、袋から折り詰めを取り出し始めた。その横には薫が優しい微笑みを浮かべ、座っている。 

「おおっ、うまそぅー」
 折り詰めの蓋を開けた瞬間、透が歓喜の声を上げた。中にはトロ、ウニ、イクラなど、目にも鮮やかな大降りのネタがのった握りが詰まっていた。
「奮発して上握りよん」
 香は両手の平を顔の横で合わせると、満足げにさらににっこりとした。
「ん?ひとつ多いぞ」
 テーブルの上に置かれた寿司折りは全部で5つあった。
「あ、うん。東雲くんもいると思って買ってきたんだけど、今日は来てないの?」
 と、奥の部屋まで覗くように首をあちこちに向けては影を探した。
「なんであいつがここにいなきゃならん。いなくてあたりまえだぞ!?」
 不服そうに蕾が言った。
「じゃあ、せっかくだから呼んであげてよ」
「あいつなんか呼ばなくてもいいっスよ。あいつの分は俺と蕾で山分けにしますから。東雲に上寿司食わせるなんてもったいないっスよ。なぁ、蕾」
「うむ」
 そう言うと透は折を二つ、自分の方へと引き寄せた。
 
「みんなで食べると美味しいねー」
 熱いお茶も入り、寿司を頬張る香はまるで園児を前にした保育士のようにけらけらと笑った。
「それにしても、大丈夫なんですか?こんなに奮発して」
 半分以上を胃に収めてから、透がふと言い出した。
「大丈ー夫大丈夫。実はね先週、臨時収入があったのよー」
 香はさらに意味深な笑顔を作ると、先週末、競馬で勝利を収めたことを報告した。
「なに!お前、あのメインレースを取ったのか!?」
 とたんに蕾が香に食いついた。
「え?なに?蕾もあのレース買ってたの?」
「う、うむ」
 しかしその表情は実に渋いものだった。
「で、結果は?」
「うっ・・・」
 香に問われ、思わず口ごもった。
「その様子じゃ、全部スッたわね?」
 香はニヤリと笑った。
「しかしメインレースだけでは稼げぬだろう!」
 悔しさに顔をしかめ、蕾は反撃するように言った。
「メインレースだけじゃないもん。1レースからずっと勝ったもん!」
 そんな蕾に、少し自慢げに香は言った。
「なるほど、それでこのご馳走にありつけたわけか」
 透は自分の折を完食すると、東雲の分だったものを開け始めた。
「だいだいあんたの馬券の買い方は・・・」
 と、説教のようにしゃべり出した香に蕾は喉を詰まらせ、思わず身を小さくした。

「いつも明るい人だとは思ってたけど、なんか今日の香さんはやけに明るくない?」
 わざと明るく振る舞っているような、そんな不自然さを感じた透が、さり気なく呟いた。
「そう?いつもと同じだよ?」
 香はにこりと笑った。しかしその笑顔はどことなく堅く、確かにいつものものとはどこか違って見えた。
 そんな微妙な変化に何か気付いたのか、蕾が怪訝そうに問いかけた。
「お前、熱があるのではないのか?」
「やぁーねぇ。競馬で当ててお寿司をご馳走したからって、変なこと言わないでよ」
 ほんの少し怒った風を見せながら、香はまたまたケラケラと笑った。
「冗談で言っているのではない!」
 そう言うと蕾は香の横に立ち、額に手のひらを当てた。
「やっぱり」
「えー、熱なんかないよー。全然大丈夫だもの」
 香は自分の手のひらを額に当てて確認した。
「ばかかお前は。これのどこが熱がないんだ!薫、診てやれ」
「はい」
 香りの隣に座っていた薫が向き直ると、蕾に言われるままそっと香の額に手を当てた。
「・・・確かに、微熱というには少々高いような気がいたします」
「ほれ見ろ」
「でも私、熱なんて出したことないし、こんな感じはしょっちゅうだし、これが熱だなんて思ったことないし。・・・こんなの熱のうちにはいらないよ」
 平然と反抗する香りに蕾は溜息をついた。
「お前なぁ・・・。いいから、今日はとにかく帰って休め!」
 蕾は無頓着な香にほとほと呆れかえった。
「え~、そんなぁ~」
 口を尖らす香に蕾は睨みをきかせた。
「冗談ではすまされないぞ!薫、送ってってやれ」
「はい」
「えっ!ちょ、ちょっと。いいです、薫さん。私一人で帰れるから!」
 勝手に進んでいく話に慌てた香は、立ち上がろうとする薫を制しようとした。
「ダメだ!お前を一人で帰すと何をするかわからんからな」
「それ、どーゆう意味よ」
 ついに香はふてくされてしまった。それでも年下の少年に偉そうに言われ腹が立たないのを不思議に思いつつ、しかし心配してくれたことが嬉しかったのか、上目遣いで蕾を窺うと駄々をこねはじめた。
「・・・バーゲンダッツのアイスが食べたい!」
「何を急に!」
「熱があるときは冷たいモノが食べたくなるの!」
「急に病人になるんじゃない!」
 蕾は呆れながらも、遂に香をマンションから追い出した。


「ごめんなさい、薫さん。私もう大丈夫だから・・・」
 部屋の鍵を開けながらすまなそうに香は言った。
「いいえ、香さんがちゃんと床に入るまで見届けるようにと、蕾さまに仰せつかっておりますので」
 優しく微笑む薫の後ろに高飛車な蕾の姿を思い浮かべ、信用ないんだ、と香は苦笑した。

「一度ちゃんと熱を計ったほうがよろしいのでは?」
「うん、そうしてみる」
 薫に言われ、カバンをキッチンのテーブルの上に置くと、香は奥の部屋へと入っていった。
 あるのかないのかはっきりとわからないものを程なく探し当て、体温を計ってみた。
「37.9・・・。ふぅ~ん、これが37.9の熱かぁ」
 変なことに感心する香の横で、薫が何やら作業をしていた。
「何してるんですか?薫さん」
「薬香の準備をしています。これは熱冷ましの効果もあるものなので、きっと明日の朝には熱も下がり、すっきりと目覚めることができます。あ、香りは抑えめですので香さんも気持ちよく眠れるはずですよ」
 薫は限りなく優しく微笑んだ。
「ありがとう薫さん。はぁ、蕾にあんなこと言われたから、ホントに何だか熱っぽく感じてきちゃった」
 香は額に手のひらを当てた。
「感じるではなく、本当にそうなんですよ。さぁ、早く着替えて布団にお入り下さい」
「はぁい」
 薫にまで急かされ、香は寝室に向かった。

『今まで誰かにこんな風に心配してもらったことってあったっけ・・・。そもそも熱なんて出してたら怒られるし、しんどいなんてとても言えなかったような・・・』
 と、着替えをすませ、もぞもぞと布団に潜り込みながら香は考えた。
『そう言えば・・・なかったかも・・・』
 布団の中に入り、心が妙に安心したせいか、意識が少し呆然とし出した頃、ほんのり甘い香りが漂ってきた。抑えめだとは言え、直接そばに置くのではなく、隣の部屋で薬香を焚いてくれている薫の心遣いが嬉しかった。
『薫さんの薬香・・・すごくいい香り』
 そんなことをぼんやりと考えながらも、薬香の効果で香の意識は徐々に深いところへと誘われていった。

 体中が火照っているのがよくわかった。時々額に優しく触れる細い指先と、冷たい濡れタオルの感触があった。目を開けて確かめたかったが、体が思うように動かず、本当に熱があったのだと初めて実感した。いや、熱があってもいつもはただ気づかないフリをしていただけだったのかもしれなかった。薬香がそんな心をも解きほぐし、いつもは見て見ぬ振りをしていた自分自身のことにも向き合わせ、素直な状態にしてくれた。そんなような気がした。
 しばらくして混濁する意識の中、薫とは別の気配を感じた。優しさと荒々しさを兼ね備えたよく知った気配。優しさは春の野に咲く可憐だが力強さを感じさせる美しい花のようで、荒々しさは空を駆け抜けていく疾風のように思えた。なぜこんなにも敏感に気配を感じ取れるのだろう、と不思議に思いつつも、それは多分・・・、と答えに行き当たりそうになった時、大きな見えない壁に突き当たったような感じがした。もどかしさに手探りで出口を探し始めた途端、二つの気配が遠くなっていくのがわかった。すると急にたまらなく不安で淋しくなった。もう少しそばにいて欲しい・・・もう少しだけ・・・。しかし声を出すことも体を動かすこともできなかった。
 ガチャリ・・・パタン。とドアが開き、静かに閉まる音が聞こえた。

 ザザザザザッ-・・・・・。
 去って行く足音がまるで打ち寄せ、引いていく波の音のように聞こえた。
『波・・・。ああ、泣いている・・・。私を呼んでいる・・・』
 その波音の中に、自分を呼ぶ声を聞いた香は、必死になって声の主を捜していた。
『ごめんね・・・。ごめんね・・・』
 そして涙を浮かべながら彷徨う香の姿は、いつの間にか波音とともに消えていった。


 翌日、徐々に強くなっていく日差しの中、香は驚くような爽快さで目覚めることができた。
「熱、下がってる・・・」
 確認のため計ってみた熱もすっかり下がっており、こんなに清々しく目覚めたのは久しぶりであり、薫の薬香のおかげだとすぐにわかった。
「ん~~~~~っ!」
 カーテンを開け、思いっきり伸びをした。
「なんか夢見てた気がするんだけどなぁ~」
 熱にうなされながら、なにか夢を見ていたことを思い出したのだが、内容は全く思い出せなかった。それ程ぐっすりと眠れたのだと納得することにした。
 ふと壁にかけられたカレンダーに視線が向いた。今日の日付に丸印が付けられていた。香はほんの少し目を伏せると、今度はテーブルの上に視線を向けた。見ると、レトルトのお粥がひとつ置かれてあった。何かを感じさらに視線は冷蔵庫の方へと向いた。そして前までやってくると、迷わず冷凍室を開けた。
 とたんに香の口元に笑みが浮かんだ。そこには、カップのアイスがひとつ、入っていた。
「くすくすくす・・・」
 可笑しくなって声に出して笑ってしまった。薫を迎えに来がてら、蕾が買ってきたものなのだとわかった。
 可笑しくて嬉しくて、目の端に涙が滲んだ。

「ん?あれは・・・」
 今日はどのあたりで遊ぼうかと、タバコを噴かしながらぶらりと歩いていた蕾が、花屋から出てくる香を見つけ、立ち止まった。しゃきっとしている様子から、熱はすっかり下がったのだと見て取れた。いつもならすかさず声をかけるところなのだが、香が手にしていたものに気づき、思わず声をかけることを躊躇った。


 季節柄、時折ペットの散歩に通りかかる者以外、人が訪れることのない淋しさの漂う海。まるで来ぬ者を呼び寄せてでもいるかのように、ゆるやかに波を打ち寄せては静かに引いく。夏間近の海風はまだ冷たく、時折強く吹き付ける風に立ち止まる者など一人もいはしなかった。

「泳ぐにはまだ寒いのではないのか?」
 寄せる波の際に佇み、今にも歩を前に進めそうな感覚に囚われた瞬間、意外な声音に弾かれたように香は振り返った。
「蕾!どうしてここに!?」
 電車で約一時間ほど西に移動した所にある海辺の町に、香は誰にも何も言わず一人で訪れていたのだ。
「お前こそ、こんなところで何をしている」
「え・・・」
 ほんの少し怒ったような口調に、一瞬香の言葉が詰まった。
「今にもふらふらと海の中に入って行きそうだったぞ」
 しかし今度は、小さな笑みを浮かべながら冗談ぽく蕾は言った。
「・・・」
 確かに、誰かに声を掛けられなければ、そのままふらふらと波に引き寄せられるまま、歩を進めていたかも知れなかった。そんな衝動に駆られる自分を自覚できた香は、少し困ったように苦笑し、言い訳も浮かばず首を傾げた。

「・・・仏花を・・・持っていたので気になった」
 単刀直入に言う蕾に、驚いた香が伏せ目がちだった顔を上げた。
「弟の・・・」
 こちらを見つめているまっすぐな瞳に何を想ったのか、香は小さく呟いた。
「弟のお墓がこの近くにあるの・・・」
 やはり、と蕾は思った。以前、香が過去形で弟の話をしたことを透から聞いていたのだった。
 しばらくの沈黙の後、香はゆっくりと歩き出した。その後に蕾は何も言わずに従った。そして二人は浜辺から道路へと上がる石段の途中に腰掛けた。
 海が遠くまで見渡せた。
「この海で、弟が死んだの」
 膝に頬杖をつき、香は話し始めた。
「弟はとても私に懐いていたの。私も弟が可愛くて仕方なかった。でも、あの日、ここに来たいとせがんだ弟をなだめて、私は友達との約束を優先したの。結果、弟は数人の友達とここに来て・・・弟だけが帰らなかった・・・。一度はみんなと帰ろうとしたらしいの。でもなぜだか途中で一人海に引き返して、気づいた友達が呼び戻しに行ってくれたらしいんだけど。でも、もうその時には弟は海の中にいて、波に呑まれる弟をただ見ていることしかできなかったそうなの・・・」
 どこに視点を置いているのか、香はじっと目の前の海を見つめ続けていた。
「母は私のせいだと責めたわ。・・・責められて当然だと思った。あの時私がそばについていてさえいれば、弟は死なずにすんだんだもの。後悔しても遅いのに・・・」
 語尾が微かに震えているのがわかった。
「それ以来、もともと私という人間を認めようとしてくれなかった母は更に私を責めるようになったわ」
「認めない?なぜだ?」
 ようやく蕾が言葉を挟んだ。
「さぁ。それはわからない。だけど褒められた記憶ってないのよね。10ある事柄の9の成功を褒めずにたった1つの失敗や間違いをまるで10全て失敗したかのように責める人だったから。それにもしかしたら私を心のはけ口にしていたのかもしれない。うちの両親、離婚しているの。性格の不一致ってやつ?両親が揃っていたときはしょっちゅう喧嘩してたわ。だけど別れてからは愚痴や不満の矛先が私に向き始めて、事ある毎に私のすること、言うこと全て否定して、時には自分の失敗さえも私のせいだと罵るようになったの。そして自分の思うとおりに私を動かそうとするの。何でも自分の思い通りにならなければ気に入らない人だったから。・・・でもそれが嫌だった私はさらに自分を主張し、反抗するもんだから、それがまた母には気に入らないのね。事ある毎に他人と比べられて、酷い言葉で罵られたわ。挙げ句の果てにはお前が死ねば良かったのに、とまで言われた。大概のことには耐えられたけど、その一言だけは流石に堪えたわね」
 香はほんの少し苦笑しながら話し続けた。
「こんなこともあったわ。小学校低学年の時、母の日のプレゼントを学校の授業で作ったのね。折り紙で作ったカーネーションだったけど、一生懸命作ったの。喜んでくれると思ってそれを母に手渡したとき母にこう言われたわ。こんなつまらないもの、ほしくもないってね。子供心にショックだった」
 香はさらに苦笑した。
「時々考えるの。私は一体何なんだろうって。確かに性格はいい加減で何をやってもうまくできないし、他の人より劣っているのかもしれない。だけど、だけど私は私、それ以外の何者にもなれないの。いつも私なりに精一杯やっているつもり。だけど、それだけじゃだめなのね。本当の私を見てくれる人は誰もいないわ。・・・ねぇ、私という人間が、一個の存在が誰にも・・・親にすら認められず、ありのままの自分でいちゃいけないのなら、私は一体どうしたらいいの?私の存在自体が無意味になってしまう。・・・それはつまり、存在することをも否定されてしまうことになる。そしたら私は・・・もうどうしたらいいのかわからなくなるの」
 香は両の手の平の中に少し顔を埋めた。
 ある意味、因果なのかと蕾は思った。しかしそれは禁句であり、決して告げてはならないことだった。
「親を憎んでいるのか?」
「・・・わからない。それでも親は親だからね。・・・だから家を出たのかもしれない」
「・・・」
 この少年を見ているととても不思議な気持ちになった。姿形は確かに少年なのに、どこか他の少年と違っていた。喫煙や飲酒を目の当たりにしても、なぜか無理に止める必要性も感じられなかった。何かが他の者とは違っていた。それが何なのか、知っているような気もした。知っているからこそ、彼がそばにいると安心でき、全てを受け止めてくれるような、そんな気になるのだと思った。そうでなければ、こんな話をこの少年にするはずがないと香は思った。

「ご、ごめんね、急に変な話して。ところで蕾、これからどうするの?私あのホテルに泊まってるの。良かったら一緒に泊まる?ディナー御馳走するよ?」
 自分のくだらない愚痴に付き合わせてしまったことを少々後悔しながら、香は無理矢理笑顔を作るとすぐそばに見えるホテルを指さした。
「いや、帰る。透にもなにも言ってないからな」
 そう言うと蕾はゆっくりと立ち上がった。
「・・・そう」
 少し残念そうに香は呟いた。本当はもう少しそばにいてほしかった。何かしら心が不安に掻き乱され、一人で居ることが無性に怖かった。いつもなら強引に蕾を引っ張っていくところだったが、この日はなぜか弱気になり、これ以上こんな自分の愚痴や我が儘に蕾を引き留めることなどしてはいけないと思った。

 穏やかに寄せては返す波が、二人を手招きしているかのように思えた。

 香と別れた後もしばらくの間、蕾は浜辺に一人佇んでいた。その大きな瞳で遙か沖の方を睨みつけている。
 その時ほんの少し湿った風が蕾に吹き付けた。
「お前は・・・」
「これは御大花将どの」
 蕾の髪を乱しながらふわりと上空から舞い降りたのは風の四天王の一人、西風王小岐であった。
「もしかしてこの海での異変を察知されたか?」
 訊ねる西風王の面もちはどこか神妙だった。
「ああ、海風に乗って散った花気を感じる」
 そう言うと蕾は再び強く海を凝視した。
 ここ数年、この海では人身事故が多発していた。年に数人、地元の人間や海を訪れた観光客がこの海で亡くなっていたのだ。しかしなぜかその体は上がることがなく、それを恐れた人々は容易に近づこうとはせず、いつしかこの海を訪れる者は年々少なくなっていた。
 海面に漂う不気味な邪気とほのかな花気を感じ、何かが居ると察した蕾は、その正体を探ろうと、香と別れた後もここに居たのだった。

「実は花将どのにお知らせせねばと思っていたところなのですよ」
「?」
 西風王の話によると、最近、この海の近くに咲く花々が急激に枯れることが多くなり、そして先日、花から離れた花精が何かに導かれてでもいるかのように、海の中に消えていく姿を見たと言う。さらにこの海には人間を餌にする海魔が住んでいて、その海魔が寄りつかなくなった人間の替わりに花精を惑わせ、喰らっているのではないかとも言った。
「奴はどうやら人間の心の弱みにつけ込み、過去を暴いたあげく、誇張することで感情を増幅させ、それに苦しむ人間の心を餌にしているようです。そしてすでに喰らった人間の魂を利用してそれに近しい人間を呼び寄せ、餌にする。その繰り返しをしていたものだから結果、人間自体があまりこの海に近寄らなくなり、業を煮やした海魔が近くに居た花精を惑わせ、手当たり次第餌にするようになったようです。実はこの上空を通過する風仙も何人か犠牲になったことがあって、なんとかしなければと思っていたところなのですよ」
 西風王の説明に聞き入っていた蕾は腕を組むと、何やら深く考え込んだ。花精を惑わし、餌にする海魔、御大花将として、放っておける事象ではなかった。
「近しい者、か・・・」
 そして小さく呟くと、三度海を凝視するのだった。


 夜の海は、見つめていると吸い込まれてしまいそうなほどに闇が深かった。波音だけが耳の奥に響き、自分を呼ぶ懐かしい声のように思えた。
 重い罪悪感に苛まれながら、自分を呼ぶ声に心を引っ張られ、呼ばれるままに香は昼間の浜辺に降りていた。その瞳には一体何が映っていたのか、ふらふらと海に向かう姿はまるで何かに操られてでもいるかのようだった。
『助けて・・・早く助けて・・・』
 そんな声が香を急かし、焦らせた。
「待ってて。今・・・今いくから」
 声に応えるように香はただひたすらにその姿を求め、足下を波に濡らした。

「香!!」
 激しく呼ぶ声が響いたとき、胸元まで波に浸かっていた体が、何かに引っ張られたかのように突然どっぷりと沈み、消えた。
 それを見た蕾はすかさず海に飛び込み、後を追った。

「久々の獲物よのぉ。しかも人間の魂と花精、いやこれは天界の花仙のもの、その両方を持ち合わせているとは、珍しい。さっそく心の奥を暴くとしよう」
 海の底で巨大な物体がゆっくりと動いた。その中心辺りに二つの赤黒い光がニヤリと笑ったように見えた。

 ゴボゴボと水底に沈んで行く中、無数の水泡が視界に入った。その中には助けを求める、海魔に喰われ魂を束縛された人々の姿があった。
 その中の一つが香に近づいてきた。中には小さな少年がひとり、訴えるような眼差しでこちらを見ていた。
 訳がわからず薄れゆく意識の中、すさまじい早さで香の心の中に過去の映像がフラッシュバックしていた。
「これは・・・!?」
 同じ領域に居た蕾の心の中にも、海魔が見せる香の過去の映像が微かに流れ込んできた。

『イライラさせないで!お前はろくなことができないんだから、黙って親の言うことだけを聞いていればいいのよ!』
『こんなもの、誰が欲しいって言った!?よけいなことばかりして!もっとまともなことはできないの!?』
『・・・になったのもお前が余計なことを言うからよ!』
『お前のようなグズな人間は何をやったってまともにはできないんだから!ああ、もう、どうして親の思うとおりに動かないの!?』
『お前も死ねば良いのよ!お前のせいであの子は死んだんだから!みんなお前のせいよ!あれもこれも、みんなお前のせいよ!!』
 激しく罵られる声が心の奥をえぐった。
「香!」
 香に向かって必死に手を伸ばし、掴まえようとするのだが、海中はうねり、蕾を寄せ付けようとしなかった。
『みんな私が悪いの?私が言うことを聞かないから?でも、私にだってちゃんとできることもあるの。なのにどうしてそれを見てくれないの?認めてくれないの?頭ごなしに決めないで。どうして何もかも押しつけるばっかりで、自分の意志でやろうとすることをことごとくうち消そうとするの?。私の意志はどうなるの?私にだって意志はあるのに。私は・・・何?お願い、誰でも良いから“私”を見て!私を・・・!!』

 全てを否定され、弟の死すら己のせいにされ、やりきれない想いを心の奥に押し込め、それでも誰かに自分を、自分という存在を認めて欲しくて、しかし海魔の見せる過去は辛いものばかりで、容赦なく心の奥をえぐってきた。
「弟が死んだのはお前のせいだ。お前が見殺しにしたのだ。お前はこの世にいてもいなくてもどうでも良い存在。誰も、親すらお前のことなど気には留めていない。今更お前が消えたとて、誰も気づきはしない。誰も泣きはしない。このままお前も海の泡となればいい」
 追い打ちをかけるように海魔の言葉が香を責めたて、罵った。
 触れられたくない過去を引き出され、更に香の記憶は遡り、最も触れられたくなかった固く封印されたはずの過去をも、ついに海魔によって荒々しくも強引に引き出されてしまった。

 燃え上がる花園が一面に広がっていた。
『誰か!誰か助けて!!』
 意志とは裏腹に花々を炎に包んでしまう自分自身を強く責めながらも、心の中では泣き叫び助けを求めていた。しかし誰も自分に触れることすらできず、故に自分を助けてくれる者など唯の一人も存在しなかった。
 心に受けた激しい衝撃に、力の抜けた香の体からうっすらと金色の炎のようなものが漂い始めた。
「!?」
 それを見た蕾が息を呑んだ。
「だめだ、香!」
 瞳から溢れた涙が小さな粒になって水中を漂った。
 ひとつの心にふたつの辛い過去を持ち合わせた香。普通の人間であったなら、すでに耐えられず、心が壊れていたことだろう。しかしそんな香の心を辛うじて留めさせたのは、蕾の声だった。
 ぐるぐると巡る過去の中に、声に反応して断片的に見え隠れするものがあった。弟のような存在の少年、それは過去からも自分を護り、存在を認めてくれた唯一の者だった。その少年が叫んでいる。見失うなと叫んでいるように聞こえた。
 過去像は海魔が意図して見せたものであることは明らかだった。時には心の奥に眠る、本人すらも忘れかけていた過去や、自ら鍵をかけてしまった記憶などを容赦なく引き出し、目の当たりにさせ人の心を狂わせ、また意味のない絶望感を味わわせ、混乱の内に貪り喰らう、それがこの海に住む魔物の手口だった。
「くそっ、このままでは記憶が・・・!」
 封印された焔燬の記憶を揺り起こすことだけはどうしても避けたかった。御大花将としても、なんとしても避けなければならなかった。しかしこのままでは焔燬の記憶の封印が解かれるのも時間の問題だった。
 もう何もかもが嫌になり、全てを投げ出し辛いことからも解放されたい・・・。そんな感覚に囚われはじめ、断片的に見え隠れしていた姿さえ消えかけた時、その者の声が激しく意識の奥を震わせた。
「過去にのまれるな!お前は一人ではない!!」
 地上にはあり得ない美しい花園の中、いくつかの知った顔が微笑んでいた。それは過去に自分が居たはずの世界であり、現在に出逢った大切な者たちの姿であった。そして確かに彼らは今も笑顔で手をさしのべ、自分の側に居た。
 過去・・・。自分が今在るのは過去があるから。たとえ過去がどんなに辛いものであっても、今は・・・今は幸せだったはず。みんなと食べる食事、優しい手のひら、小さなアイス・・・。ごくささやかな幸せ、喜び、楽しみ。今の自分はそれを知っている。焔燬もその能力ゆえ、一度は否定されたが、命をかけて護ってくれる存在に出会えたことで自らを見いだせた。そしてその延長上に今の自分がいる。
 全ての過去が一直線につながった。
『私は・・・一人じゃない・・・?ほんとうに・・・?私は、私でいていいの・・・?』
 誰に問うでもなく、意識の奥でそう呟いた。
『私の過去を乗り越えられたのだから、現在(いま)も乗り越えられるはず!現在も彼がそばにいるのだから』
 心の奥でもう一人の自分がそう叫んでいた。

「蕾・・・!」
 意識が現実へと引き戻されたとたん、喉の奥からゴボゴボと息がもれた。苦しさのあまり両手で口と喉元を押さえた。その時、近づいてきた泡の中から小さな声が囁いた。
『ごめんね・・・ごめんね。お姉ちゃんのせいじゃないから・・・ごめんね・・・』
 少年は必死になって訴えているように見えた。
『・・・!?』
 それは数年前、この海で亡くなった香の弟であった。
 その姿を認めたものの、もう息が持たず、香の口から最後の息が泡となった。
「!このままでは、香がもたない」
 渦巻く波に、香の体を掴まえられず、焦りを覚えた時だった。海が鋭利な何かで切り裂かれたかのように突然頭上に飛沫とともに小さな月が現れた。
「花将!!」
 事態を察知した西風王が風を起こし、海面を切り裂いたのだった。蕾はようやく香を掴まえると、切り裂かれた断面から空中に飛び出し、香を放り上げた。
「西風王!受け取れ!」
 香の身を西風王に託すと、蕾は閉じられた海中へと再び突っ込んだ。

 海中深く、獲物を奪われ、怒りを露わにした赤黒い光がこちらを睨んでいた。
 ゴォォォッ!!と水が激しく震動すると、それは蕾に襲いかかる勢いで浮上した。海面を盛り上げ、水柱を上げながら現れたそれは、ぬらぬらと黒光りする、生々しい固まりだった。まるで巨大なクラゲのような笠を持ち、無数の触手をうねらせていた。
 巻き上げられた水もろとも上空に放り出された蕾は、すぐさま体制を立て直すと海魔を見下ろした。
 突然触手の数本が蕾めがけて凄まじい勢いで伸ばされた。それを難なく交わし、指先の気合いだけで見事に断ち切った。しかし背後から伸びてきた触手に体を絡めとられ、凄まじい勢いで振り回され海面に叩きつけられると、そのまま海中に引きずり込まれた。海中でも無造作に振り回され、再び海面に出ると、更に海面に叩きつけようとした。
 ピシッ、と風の鳴る音がしたかと思うと、触手は切断され、蕾の体は寸前で解放された。
「すまん、西風王」
 西風王が口元に小さな笑みを浮かべた。
 それを見た海魔が今度は西風王に向かって触手を放った。
 西風王が右手を上げると、それを軸に風が巻き起こり、ヒュゥゥゥ・・・と鋭く鳴った。そして手をゆっくり回転させ、海魔めがけ力強く放たれたそれは生き物のように海魔に絡みつくと、その自由を奪った。
「今だ、花将!」
 それを合図に蕾は手のひらに炎の花を咲かせた。
「花炎祓濯!!」
 放たれた炎がオレンジ色に輝き、海魔の体をあっという間に包み込んだ。
「ぐぁぁぁぁ・・・っ!!」
 浄火に焼き尽くされた海魔は、蒸発する水のごとく体を沸騰させ、跡形もなく消えてしまった。すると真っ暗な海面がほのかに光ったかと思うと、海中からいくつもの水泡がシャボン玉のように現れ、静かに消えていった。海魔の消滅によって今まで囚われていた魂が解放されたのだった。その中にはもちろん香の弟のものもあった。
『ごめんね、ごめんね』と繰り返し、消えていった。

 海には安らかな闇と静寂が戻りつつあった。

「もう気にするな。すべて(・・・)はお前のせいではない」
 完全に意識を取り戻した時、香は浜辺に横たえられていた。今の今まで何が起こっていたのか、冷静に考えられる程不思議と落ち着いていた。
 やはりこの少年はただの少年ではなかった。それを知っても驚かなかったのはきっともっと前から知っていたからに違いなかった。そして全てを思い出すことはできなかったが、海魔に見せられた過去像から、自分自身の中にもこの少年に係わる何らかがあることをかすかに悟った。それが何であるのか、とても知りたかった。しかし今はその時ではないような気がし、記憶の中を、心の中をさぐることをやめた。
「蕾・・・」
 たった一言でよかった。たった一人でよかった。それをこの少年は与えてくれた。ささやかな想いが、鉛のように重かった心をたちまちのうちに軽くしてくれた。それが嬉しくてならなかった。
「私は・・・」
 何と言っていいのかわからなかった。言葉の続かない香に蕾はさらに言葉を与えてくれた。
「確かにお前は厚かましくていい加減でお気楽者でお人好しだ。だが、お前はお前だ。どれか一つでも欠ければお前はお前でなくなる。だから、そのままでいいんだ」
「・・・うん・・・ありがとう・・・」
 香は涙の滲む瞳をぎゅっと強く瞑り、両手で覆った。

 私は私のままで・・・。
 ありのままの自分をようやく認められたような気がした。

 一時舞い降りた西風はいつの間にか彼方に去り、邪気の消えた海は、それでも昼間と変わらずゆっくりと波を寄せ返しては、来ぬ誰かを呼んでいるように思えた。

「やっほー」
 いつものように威勢良く現れた香は、またしても両手に大荷物を抱えていた。
「ちょっと高級なお肉が手に入ったの。だからみんなで食べようと思って外の材料も買い込んできたの~」
 見ると、結構な量の霜降り和牛がスーパーの袋に収まっていた。
「今夜はスキヤキよん♪」
 茶目っ気たっぷりに香はまるで新妻のように振る舞った。
「あれ、今日も東雲くん来てないの?」
 と玄関口に並んだ靴を見て、香は呟いた。
「だーかーら、何であいつがいなきゃならんのだ!」
 当然のように口走る香に蕾は不満そうに唇を尖らせた。
「だって大勢いたほうが楽しいんだもん」
「だからってあいつは呼ばなくていいですよ」
 と透も蕾に加勢する。
「おやおや、随分な言いようだね。そうやって私だけのけ者にして先週のお寿司も呼んでもらえなかったんだね」
 残念そうな面もちの東雲が香の背後から現れた。
「げっ、東雲!何でお前がここにいるんだ!?」
 蕾は露骨に嫌な顔をすると僅かに後ずさりした。
「たぶんそんなことだろうと思って先に東雲くんを誘いに行ったのよ」
 香と東雲が目配せしてニッコリと微笑むと、余計なことを、と言いたげな蕾が苦虫を噛みつぶしたように顔をしかめた。
「はい、これは蕾に差し入れ」
「うわっ!」
 東雲はさらに背後から取り出したものを弧を描くように蕾に放り投げた。とっさにそれを受け取ったものの、予測がつかず、大きくバランスを崩し、物ごとつんのめった。
「東雲っ!?」
 それは5リットルのボトル入りの焼酎だった。
「私たち用には久保田を買ってきたんだけど、ザルでウワバミのきみに良いお酒を飲ませても勿体ないだけだからね。質より量?それで十分・・・☆!」
 リビングに向かう途中、鈍い音とともに焼酎のボトルの最も堅いだろう底部分の縁が東雲の後頭部の形にベコリと凹み、勢い余ってつんのめり額をおもいきり床に打ち付けた。
「・・・☆◆※♯@!!」
 東雲は声も出せず、頭部を抱え込み、その場に座り込んだ。
「透、こんな奴は放っといて奥で飲むぞ」
 焼酎のボトルを今度は軽々と手にすると、二人はドカドカとリビングの方へと消えていった。
「大丈夫?東雲くん」
 笑いたいのをなんとか堪え、コブのできた後頭部をそっと撫でてやった。
「ははは・・・」
 東雲はただ涙目で苦笑するしかなかった。


「今日は体調良いみたいだな」
 ぐつぐつと煮える鍋を目の前に、体制の整った透が蕾に小声で話しかけた。
「ああ。もう我慢する必要はなくなったからな」
 と楽しそうに支度をする香の後ろ姿を見て、それが本来の姿なのだと改めて感じた蕾は小さく笑った。
「やっぱ、こうでなくっちゃ」
 同じくそんな香の姿を見て呟くと、透は鍋に箸を延ばした。
「あ!東雲!!オレの肉!!」
 箸にかけようとした肉を寸出で奪われ、透が怒鳴った。
「オレのって、名前でも書いてあったのかね」
 涼しい顔で肉を口に入れると、再び鍋に箸を延ばす東雲に
「お前はしらたきでも食ってればいいんだ!」
 と今度は蕾が憎まれ口をたたき、東雲が取ろうとした肉を奪った。
「あっ、ひどいじゃないか、蕾~」
 いじけた声を出す東雲に、微笑みながら
「まあまあ喧嘩などなさらないで。東皇使さま、透さま、こちらが煮えてございますよ。蕾さまもこちらを・・・」
 と薫が手ずから三人に肉をよそってくれた。
「そうだよ喧嘩なんてしないの。お肉、まだまだ沢山あるんだからね」
 肉ののった皿を手にし、キッチンから現れた香が満面の笑みで席に着いた。
「アイスも買ってあるからね~」
 その一言がさらに場を盛り上げ、賑やかさを増した。

 楽しそうに肉の奪い合いをする透と東雲と蕾に、日本酒で乾杯する薫と香。いつものように賑やかに、鍋を囲む五人の姿がそこにはあった。


 春の終わり、初夏の風が吹き始める夜、海鳴りは彼方に消え、楽しく賑やかな笑い声だけが絶えずさざめいていた。
 心の芯まであたたかくなるような、そんな彼らの団らんはまだまだ終わりそうになかった。

おわり