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春、日和-草原-

春、日和-草原-

 どこまでも続く穏やかで曇りのない青い空。時折小さな鳥たちがさえずりながら飛んでいく。そよそよと流れる風は微かに暖かさをはらみ、何かを伝えるように全てのものに優しく触れながら通り過ぎていく。
 草むらの中に隠れるように、遠慮がちに顔を出していた小さな花も、今は堂々とその姿を空に向け嬉しそうにその存在を示している。

 四方になだらかに延びる緑の大地。力強く根を張る雄々しき樹木や美しく咲き誇る花々。季節の移ろいを確実に示し、生命の恵みにも満ち溢れ、ありのままの美しさが保たれた聖域のような場所がこの地上にはまだいくつもあった。

 遙か遠くに山々の連なりが見渡せる丘の上で、何を待っているのか、ゆるやかな風に揺れる一輪の花のように蕾は佇んでいた。襟元と袖口にレースをあしらった淡いピンクのブラウスが緑に映え、ミニのプリーツスカートは風にくすぐられるように小さく揺らめいていた。
 蕾はすぐ傍らにそびえていた一際大きな樹を仰いだ。雄々しく、大きく両腕を開き、すべてのものを優しく包み込もうとしているような枝振りに繁る、眩しいほどの若葉。その緑の隙間から漏れ落ちる木漏れ日に目を細めながらも近づくと、両手を幹に添え、まるで恋人の胸元に顔を寄せる時のようにそっと耳を当てた。目を閉じると、大地から駆け上る生命の胎動を確実に感じ、とても安心した気持ちになれた。
 蕾はその根方に腰を下ろし、大きな幹にもたれかかった。芝草がミニのスカートから延びる白く細い足にチクチクと悪戯をしているようで、こそばゆくて蕾は思わずクスリと小さく笑った。

 あまりにも穏やかすぎる昼下がりに、蕾の意識は次第にウトウトし始め、ゆっくりとまどろみの中へと溶けこんでいった。

 虚ろぐ意識の中で感じる鳥の声、流れる風の音、そして土と緑の匂い・・・。全てが優しく自分を包み込み、とても穏やかで幸せな気持ちにさせてくれた。
 それがなぜなのか、蕾はよく知っていた。

 心に想うものはただひとつ・・・。

 その気配を感じ取るのに時間も理由もいらなかった。

 弾かれたように目を覚ますと、蕾はゆっくりと立ち上がった。そして広がる草原の一点を凝視すると、自然とその表情が微笑みに変わった。
 しばらくしてそれは姿を現し始めた。ゆっくりとこちらに向かってくる人影。それはまぎれもなく己の愛する、またこの身を、魂さえも愛してくれる唯一最愛の者の姿だった。

「歩いて来たのか?」
 愛しい者を前に、込み上げてくる熱い想いを押さえつつ、それでも無意識のうちに両手を東雲の腰に絡め、蕾は訊ねた。
「ああ。せっかくだからね」
 そんな蕾に東雲はやわらかい笑みを返した。
 飛べば早いのに、と蕾は笑った。もちろん東雲も気が急かなかったわけではない。本当は一刻も早く蕾に逢いたかった。しかし、自らが導き招いた「春」を確かめ堪能するため、東雲はゆっくりとありとあらゆるものに声を掛け、春の軌跡の先にあるものを心から感じたくてあえて地上を踏みしめた。果たして辿り着いたそこには東雲が最も愛すべく最上の「春」が待っていた。
 この世で最も愛すべき「春」。それは「蕾」という姿で東雲の前に存在していた。初めて会った日より東雲の心を捕らえて離さなかった存在。最初は素直になれず反発していた蕾の心もいつしか東雲に向けられ、今は互いの心が溶け合うほどに繋がりあっていた。しかし蕾には「春をもたらす者」に自分がそのきっかけ(「春」)を与えているなどとの認識はなかった。自分の存在が彼にこのような「春」を呼ばせていることに全く気づいてはいなかった。

「蕾ゆえの春」。もしもこんなことが知られれば、職権乱用、公私混同と言われ、東皇使の位を取り上げられてしまうかもしれなかった。しかし彼の呼ぶ「春」に異を唱える者など一人もおらず、誰もが満足していたのは事実だった。

「なぜだ・・・」
 と蕾は小さく呟いた。そして一瞬俯いた顔をすぐに東雲に向けると、大きな瞳で東雲をしっかりと捉え、訊ねた。
「なぜこんなにもお前が愛おしい?」
 蕾の全身からは東雲への愛おしさが止めどなく溢れ、甘く切ない花気となって空気に溶け込み、春の気をより濃厚なものへとかえていた。
「私も・・・。蕾、きみが愛おしくてたまらない」
 蕾の問いに、東雲はやわらかな陽光のような微笑みを浮かべ、ささやくように答えた。またその黒曜石のような瞳も蕾をしっかりと捉えて離しはしなかった。

 なぜ・・・。答えなどいらなかった。互いが出逢ったその瞬間に生まれた感情がそれで、今も変わらず成長を続けているだけ。それは東雲ゆえに、蕾ゆえに。ただ、それだけだった。

 ただ、互いを見つめ、想うだけで愛おしさが止まらなかった。

 いまだ止まらぬ溢れる想い。限りない愛おしさに心は激しく震える。
 二人は見つめ合うと、そっと唇を合わせた。そして甘く深い口づけを何度も何度も交わすのだった。


 二人の横を春風が優しく通り過ぎていく。


 蕾は東雲の招く「春」が好きだった。
 東雲は蕾ゆえの「春」が愛おしかった。

 彼が東皇使である限り、訪れる「春」に変わりはなかった。


おわり