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春待夜 ~東大寺修二会・幻想~

春待夜 ~東大寺修二会・幻想~

「御大花将どの、一緒に春を迎えに行かないかい?」
 突然、屈託のない笑顔を向けられ蕾はたじろいだ。

 天界・聖仙郷は華郷苑の花の帝 錦花仙帝を母とし、風の覇王 玉風大帝を父とする蕾は幼いながらに天界花士軍全軍を指揮する総大将、御大花将の位にあった。そして今傍らにいたのは、天界を統べ賜う神扇山の主、永林樹帝の第八皇子にして春の宰主、東皇使 東雲であった。
 春を迎えに・・・。そんなことを幼馴染みでもある東雲に改めて言われると、ついつい身構えてしまう。しかし己にも全く関係のないことではないだけに、ほのかに興味を抱いた蕾は、不本意ながら東雲とともに春を迎える準備に勤しむ古都、奈良を訪れていた。

 三月も上旬を過ぎ、暖かな中にもまだまだ厳しい寒さの残る南都の地に、ひと目春を呼ぶ行事を見ようと、各地から沢山の観光客がやって来ては、春間近の古都を賑わしていた。

 奈良市の東部、東大寺大仏殿より北東に位置する場所に目的の二月堂はあった。

 三月一日より始まる本業、一般的に「お水取り」として知られる東大寺修二会の法要は十一面観世音菩薩を本尊とし、「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽」などを願って祈りを捧げ、練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる十一名の僧侶達が自らの罪障は無論のこと、他の全ての人々の罪過も代わって懺悔し、その上で観音様に人々の幸福をお願いする。これは「修二会」の中の一つの行事であり、正式には「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と呼ばれる。前行、本行をあわせて一ヶ月、準備期間を加えれば三ヶ月間にも及ぶ大きな法要に、これが終われば大和路に春が訪れると言われている。
 そんな春を呼ぶ行事がこの時期奈良で行われるのは全国的にも有名である。

 大きな斜面に建つ懸崖造りの二月堂を遠巻きに眺める二人の表情は、春を待つ人々と同じに和やかであったはずだった。しかし辺りに立ちこめるわずかばかりの邪気を感じ、ほんの少し眉をひそめずにはおられなかった。

「これは一体・・・」
 祭事の最中、わずかとは言え邪気が漂うこの地に違和感をおぼえ、東雲は身にまとっている高校の制服の地味さとは裏腹な端正な顔を更に歪めた。
「これだけの人間が集まっているのだ、少々邪気があったとておかしくはなかろう」
 一見、育ちの良さそうな不良中学生を思わせる蕾が腕を組みながら、不安げな表情を見せる東雲に当たり前のように答えた。確かに邪気の全くない人間などあり得なかった。ましてや不特定多数、多い日では三万人もの人々がこの地を訪れるのだ。聖なる行法とは言え、全てを清めきれるはずもなかった。しかし妙な胸騒ぎをおぼえた東雲は、そんな蕾の言葉も上の空で、ただこの祭事が無事に終わってくれることだけを願うのであった。

 この日は修二会も十二日目で、今夜は十一本の籠松明が上堂し回廊を走る。その巨大な籠松明をひと目見ようと、明るい内から場所取りが始まり、大仏殿の辺りから人波が続き、二月堂はとんでもない人混みであった。
「蕾・・・」
 さり気なく蕾の手を取り、人混みの中を逆らいながらなんとか波から逃れ、移動する人々をゆっくりと伺える場所にたどり着いた。
「・・・いつまで握っている!」
 横目で睨まれ、東雲は慌ててつないでいた手を離した。
「あ・・・ごめん。きみが迷子にならないようにと思って」
 小さく笑う東雲にたちまち蕾の顔が赤面した。
「だーれが迷子になるか!」
 蕾は眉を吊り上げ、怒鳴った。
 こんな風にからかわれるのが蕾にはしゃくだった。すかした顔でいつも自分を子供扱いするこの幼なじみが蕾は大嫌いだった。しかし気がつけば彼はいつも自分のそばにいた。そして無謀で乱暴極まりない自分を絶えず心配そうに窺っていた。今も天界一の武将である自分に対してまるで小さな子供を庇護する保護者のような眼差しを向けられ、ムカムカと怒りのようなものが込み上げてくるのがわかった。そしてそんな蕾を察し、東雲は苦笑した。
「笑うな!」
 心底イヤな奴だと蕾は怒鳴った。そして顔を真っ赤にしながら襟首に掴みかかった。
「いや、ち、違うんだ・・・」
 身を竦めながらも、今度は本当に蕾の仕草が可笑しくなって東雲は口を押さえ、小さく肩をゆらしながら笑った。
「あのなぁ!」
 さらに顔を真っ赤にし、拳を振り上げた時だった。ふいに何かの気配を感じ、蕾は振り返った。
「え?」
 緑のすき間をゆるやかに動いた影に蕾は眉をひそめた。そして確かめようと東雲を突き放すと、慌てて駆けだした。
「蕾!?」
 その様子に驚いた東雲がすぐさま後を追った。

 確かにここに居たはずなのに、と蕾は辺りをきょろきょろと見渡した。
「何?どうしたんだね、急に」
 訳がわからず蕾に尋ねるが、考えを巡らせているのか、なかなか東雲に答えようとはしなかった。
「花精が・・・」
 そして独り言のように呟いた。
「花精がいたんだ」
「!?花精だって?だけどこの辺りには花は咲いていないし、ましてやどこかに咲いていたとしても花精はその本体から離れては長くは生きてはいられない。何かの見間違いではないのかい?」
 東雲も辺りをキョロキョロと見渡し、どこにも花が咲いていないことを確認した。
「いや、確かに花精だった」
 その証拠に辺りには微かだが花気が漂っていた。
「こっちだ」
 ほんの少し尾の引く花気を頼りに、蕾は歩き出した。そして人気のない木々の鬱蒼とした場所にそれは佇んでいた。

「おまえ、花精か?」
 花精だと断言しながらも問わずにはいられなかった。
「あなた様は・・・?」
 それはゆっくり振り向くと、自分の姿が見える、高貴な気を纏った二人に応えた。
「オレは天界の御大花将。こいつは東皇使だ」
「天界の・・・御大・・花将・・さま?」
 小さく首を傾げる花精はどうやら御大花将や東皇使を知らないようであった。
「そうだ。オレは天地の花々を恙なく咲かせる者。そしてこいつは地上に春をもたらすのか役目だ。お前は何者だ?」
 確認の意味を込めて蕾は再び問いかけた。
「私は、椿の精にございます」
 花精は静かに答えた。
「しかし今は花は咲いていまい」
 姿形は確かに椿の花精だった。しかし辺りには花はなく、故にそんな場所に花精が存在しているはずもなかった。
「・・・正確には試別火(ころべっか)に練行衆の手によって造られた造花の椿でございます」
「造花の花精だと!?」
 蕾は目を丸くした。造花の花精など、聞いたことがなかったからだ。
「し、東雲、これはどうゆうことだ」
 意味がわからず、目をぱちくりさせながら蕾は東雲に答えを求めた。
「う~ん。私にもよくはわからないけど、造花の椿といえば、修二会の本業の準備として東大寺戒壇院の庫裡で二月二十日から二十五日まで行われる試別火・・・別火とは結界内で火打ち石で起こされた火を使用して、一般の生活の火とは隔離した火で生活することなんだけどね・・・、に練行衆が修二会での声明(しょうみょう)、お経の稽古などをするほかに仏前を飾る南天や彼女の言う椿の造花を造ったりするんだよ。その椿は邪気を払うと言われているんだけど。しかし造花の花精とは・・・」
 東雲もいくらか驚いた様子であった。
 造花の椿は奈良三銘椿のひとつである良弁椿を型どったものといわれ、練行衆によって二月二十三日「花ごしらえ」で造られる。赤と白染めの仙花紙を五枚花弁用に、黄染めの傘紙を芯として、五㎝程に切られたタロ(タラの木、俗に鳥とまらず)に貼り付け、四百個造られる。そして二月二十七日その造花を三種類に切り分けられた大小二十本の椿の木の枝に付けるのだ。

「私は、長年の・・・人々が春を待ち望む心から生まれた花精。沢山の人々の心が私にこのような姿を与えてくれました。故に私は人々の心そのものなのです」
 花精の視線の先には二月堂に集まる人々の、楽しそうな表情が無数にあった。
「今回の修二会は今年で千二百五十四回目だそうだ。二月堂での修二会が始まって以来、二月堂そのものが火災にあった時も三月堂を使って勤められたというから、今日に至るまで一度も途絶えることなく続いてきたことになる。よって『不退の行法』とも称せられている。そんなこともあって、悔過の法要はもちろんのことだけど、造花の椿に花精を宿らせるほど人々の春を待ち望む想いが強かったって言うことなのだろうね」
 少し合点がいったのか、東雲が花精に合わせるように話しを付け加えた。
「ですが今年の修二会は少し違いまする」
 花精は表情を曇らせ、俯き加減に呟いた。
「私が生まれたように、相反するものも生まれ、春を呼ぶ祭事を邪魔しようとしているのです」
「なんだって!?」
「悔過とは人間が生きる上で過去に犯してきた様々な過ちを本尊とする十一面観世音菩薩の前で発露(ほつろ)懺悔し、幸運を呼び込もうとすることでございます。しかし悔過しきれず、取り除けなかった人々の邪な心が、長い年月の間に積み重なり、ついには形を持つようになったのです」
「・・・とどのつまり、どうゆうことだ?」
 少し頭がこんがらかった蕾が、顔をしかめ、東雲の方をチラと見た。
「つまりは昇華しきれなかった人々の邪心が、形を持って災いを成そうとしているのだね」
 東雲の言葉に花精は小さく頷いた。
「本日、後夜(正確には十三日午前二時頃)閼伽井屋(あかいや)の若狭井(わかさい)からお香水(こうずい)が汲み上げられます」
「お水取りだね」
「はい。水取りは秘儀とされすべて暗闇の中で行われます。しかし暗闇の中には常に悪しきものが存在いたします。たとえそれが聖域であったとしても、それは人間の成すもの。完全ではございません。今では修二会全体を現す俗称を『お水取り』と呼んでいる人々にとってこの日の水取が済んでこそ、春が訪れるのだと信じてやみません。しかしそれが失敗に終われば・・・」
「春はやって来ない・・・と」
「はい。故に私はそうなることを阻止しなければなりません」
「・・・君が!?」
「私はそのために生まれたのですから・・・」
 顔を上げた花精の表情は凛としていた。しかし、人々の春を待ち望む心によって姿形を与えられた以上、その想いを護らねばならないと必死になる花精だったが、その無力さは東雲がみても明らかだった。
「無茶だ・・・」
「ですが・・・」
 東雲は意味ありげにチラリと蕾の方を見た。
「これは東皇使としては由々しき事態だね。花の憂いを晴らす御大花将の君としても放ってはおけないのではないかい?蕾」
 東雲に言われるまでもなかった。わざとらしい奴だと思いながらも、春を司る東皇使と天地の花々を護る御大花将としては黙って見過ごせるようなことでないのは明らかだった。
 蕾の瞳は精悍さを増し、すでに姿の見えぬ敵に向けられていた。
「後は私たちにおまかせなさい」
 蕾の様子を確認すると、東雲は花精に小さく微笑んだ。
「で、相手はどのような奴なのだ」
 じっと花精を見据える蕾に、花精は頭を小さく左右に振った。
「存在は感じるのです。ですが姿はまだ・・・」
「どこかに身を隠しているのか」
「人間の邪気の塊なのだからそこここに居てもおかしくはないのだが、逆に人が多すぎて雑多な気がその存在を隠しているのかもしれないね」
「だが今夜、確実にそいつは現れるだろう」
 現れるとすれば、その場所は自ずと限られる。

 時が経つにつれ、気温は低くなり、空には灰色の雲が広がりはじめていた。しばらくすると白い花びらのような雪が風に舞い、一層寒さを増した。それでも二月堂の周囲は熱気を帯び、人々の想いがわずかな雪すら退けているように見えた。
「これを・・・花将さま」
 花精はひとつの椿の造花を蕾に手渡した。
「これは惣別火(そうべっか・二月二十五日~末日まで)の期間、椿の木の枝に取り付ける折り、取り落としたものでございます。取り落とされた花は『塵』として使われることはございません。しかしそんな塵の椿にも練行衆や人々の想いは籠もっております。そして少なからず邪気を払う力を宿しております」
 蕾は差し出された一輪の椿を手に取った。
「花将さま、東皇使さま、どうかこの地に春をお導きくださいませ」
 花精は二人の前に深々と跪いた。


 夕方頃から空はすっかり灰色の雲に覆い尽くされ、大粒の雪が降り出し始めた。風も幾分強くなり、時折横殴りに人々に吹き付けた。しかし観光客達は今夜上堂する巨大な籠松明をひと目見ようとぞくぞくと二月堂に押し寄せていた。
「それにしてもえらい人出だな」
「そりゃそうだよ。今日は籠松明が上堂する日。観光客の中には、お松明行事はこの三月十二日だけと思いこんでいる人も多いらしい。それに上堂する時間も今日が四十五分間に対し、十四日の最終日は約五分、その他は約二十分間ということもあって、観光が今日に集中するんだよ。二月堂付近への入場規制や周辺の交通規制も実施されてるみたいだよ」


 十九時三十分、鐘の音を合図に境内の明かりが消されると、童子が担ぐ籠松明の炎に先導された練行衆が、登廊の石段を踏みしめ、ゆっくりと二月堂へ現れた。この日上堂する松明は十一本。青竹の先端部を割って松の割り木を打ち込み、すき間に杉の葉を詰め込み、竹の皮を編んで球形に整え、檜の薄皮を花びらのように外周に取り付け装飾された籠松明と呼ばれる、長さ約八メートル、重さ八十キロのものである。そして約四十五分をかけて「松明上堂」が始まる。

 ふいに歓声が上がった。見ると練行衆を導いていた籠松明が堂の舞台の欄干から突き出され、白い雪が舞う中、燃え盛る炎と大量の火の粉をまき散らしながら左から右に走っていった。
「あの火の粉を被ると一年間無病息災でいられるんだって」
 少し離れたところから松明上堂を見守っていた東雲が蕾に微笑みかけた。
「きみには無縁のことだけどね」
「一言多い!」
 何かにつけて構わずにはいられなくなる自分を自覚しながら、東雲は乱舞する炎にだぶる蕾の横顔をそれとは知られぬよう、ぼんやりと、切なげな瞳で見つめていた。
 下界には様々な春を呼ぶ行事が存在する。それは人々が心から春を待ち望み、迎えようとしている証でもあった。春の司である東雲は、それらが恙なく終わるのを見守り、必要であれば密かにそれを助け、地上に春をもたらすこともある。
 今回、そんな行事のひとつに蕾を誘ったのは、ただ蕾とともに同じ日、同じ時、同じ場所で同じ春を感じたかったがためであった。一件見た目がはるかに違う二人ではあったが確かに二人は同い年であった。放っておけばその身を滅ぼすほどの能力(ちから)を内に秘めていた蕾は、成長を止めることでその均衡を保っていた。本来の姿に戻れる日がいつくるのか、本当にそんな日が来るのか、それは誰にもわからなかった。咲くことを封印された花・・・。それゆえに東雲は蕾に「春」をもたらしたかった。

「・・・め・・・東雲!」
 耳元で怒鳴られ東雲ははっとなった。
「え?な、何?」
「何をぼーっとしている!今また籠松明が行ったのを見たのか!?」
「あ、ご、ごめん。ちょっと考え事をしていたから・・・」
 表情を曇らす東雲に、蕾はため息混じりに一瞥した。
「・・・そんなに気になるのか?」
「え、ええっ!?」
「お前は東皇使だからな、春を呼ぶ祭事に異変があれは気もそぞろになろう」
 ぼんやりしていた理由をこの地に漂う邪気のせいにされ、一瞬ほっとしたものの、なにか複雑な心境だった。
『蕾・・・』
 何かしらやり切れない想いを抱きつつも、己が感じているような複雑で弱々しい感情を全く持ち合わせていない強靱な精神(こころ)の表れでもあるその大きくて意志の強い蕾の眼差しに、東雲は辛うじて小さく安堵のため息をついた。

 風はおさまったものの、寒の戻りは厳しく、それでも雪の舞う中、炎が乱舞し松明が走るたび、人波も替わり、歓声は途絶えることがなかった。


 底冷えの寒さの中、十三日午前二時前、雅楽の演奏の中を六人の練行衆らが蓮たいまつの先導でしずしずと石段を下り、二月堂下の閼伽井屋の若狭井からお香水を汲み上げる。
担い桶に入れられた香水は、講社の人々により三度にわたって二月堂へ運ばれ、堂内で香水壺に納められる。しかし・・・。
「水取りは秘儀とされ、すべて暗闇の中で、限られた者達だけで行われる。・・・やはり誰も気づいていないようだね」
「ああ、人間の作る結界などたかが知れている。ましてや自分達の生み出した邪気を感じるどころかそれがこの秘儀を邪魔しようとしているなどとは思ってもいまい」
 深夜にもかかわらず閼伽井屋の周囲には、厳粛な儀式を見ようと多くの参拝者が集まっていた。しかし誰一人としてこの場に漂う不穏な邪気に気づく様子はなかった。
「まずはあそこから追い出さないとな」
 言うと蕾と東雲ははすっと暗闇に紛れ込んだ。練行衆たちがたどり着く前に邪気の主を
閼伽井屋から引きづり出さなければならなかった。

「いい加減姿を現したらどうだ」
 痺れを切らせたかのように吐き捨てる蕾の声に、空気が微かに振動したように思えた。 果たして蕾たちの思惑どおり、それはそこに存在した。
 禍々しい気配に、蕾が大きな目を細め静かに衝撃波を与えた一角、深い暗闇から更に黒い影が動いたかと思うと、ついにそれは姿を現した。
 痩せ細った体に痩けた頬、振り乱されぼさぼさにもつれた長い白髪。大きく見開かれた充血した目は死んだ魚のように濁り、大きく曲がった背中のせいで身長は半分になっている。骨を浮かび上がらせた体にはボロ布をまとい、異様に長い、骨と皮だけのような細い手足を持った怪魔が、だるそうに体をゆらゆらと揺らしながら二人の前に現れたのだ。
「忌々しい。春の匂いがプンプンしおる」
 開口一番、そんなことを口走った怪魔に、東雲は表情を曇らせた。
「普段は枯れた井戸もこの日だけは若狭国の水が沸きよる。それを枯らせて儀式が失敗に終われば人間どもはさぞや落胆し、悲しむことだろう。そうすれば人間どもの元に春はやってこない。くるのは深い悲しみと絶望だけだ。そうしてそれはやがて怒りや憎しみに変わり、ワシの糧となる。もろいものよのぉ、人間の心なぞ」
 独り言のように呟きながら、怪魔はおっくうそうに二人を睨みつけた。
「お前たち、何者だ?」
「オレは天界の御大花将、天地の花々を恙なく咲かせる者。こいつは東皇使。春の使いだ」
「花を咲かせる者と春の使いだと?どうりで嫌な匂いがするはずだ。だがワシの邪魔はさせん。井戸を枯らす前にまずはお前達を枯らせてやろうぞ」
 怪魔はいやらしい笑みで口元を歪めると、その姿は閼伽井屋の暗闇から消え、いつしか雪もやんでうっすらと輝く月明かりの下に移動した。それをすぐさま二人も追った。

「まもなく水取が始まる。あまり手間をかけさせんでくれよ」
 怪魔は二人を見くびるようにニヤリと笑って見せた。
「それはこちらのセリフだ」
 蕾は目を細め、怪魔を見下ろすように睨みつけた。

 月が小さく光を落とす中、ついに二人は邪気の元凶と対峙した。長年の人々の昇華しきれなかった負の心の化身を、春を待ち望む全てのもの達のために祓い、取り除かなければならなかった。
 辺りを包む空気はざわめき、昼間の人々が残していったそれぞれはごくわずかだが、互いに結びつき大きく膨れあがった邪気が一所に集まろうとしているのがわかった。
 怪魔は大きく曲がった体をさらに丸め、ぐぐっと力を込め始めた。すると骨と皮だけの体に肉が付いていくかのように何やらぼこぼこと無数のものが浮きだしはじめた。そこここに存在するあらゆる邪気を取り込みながら、すでに蓄積している計り知れないほどの邪気と融合させる。するとそれは怪魔の体の表面に形となって現れはじめるのであった。
 低い、無数のうめき声のようなものが怪魔の全身から聞こえてくる。何事が始まるのかと、油断せぬよう様子を窺っていた二人の目の前で、怪魔の姿は変容した。
「これは・・・!?」
 いや、姿形が変容したわけではなかった。腕、胸板、背中、変容させたと思わせるほどに怪魔の体表に現れた無数のそれは、呻き苦しみ、または泣いている無数の人の顔、即ち人面瘡であった。見るもおぞましいその容貌に、二人は一瞬息を呑んだ。
「人間どもの三毒は実に心地よい。おまけに怒り、苦しみ、嫉妬、様々な負の感情がワシの命の糧になる。ほぉれ、また新しい人面が生まれよる」
 そう言い新たに漂う邪気を取り込むと、怪魔の頬にぼこぼこと苦悶の表情を浮かべる新しい人面瘡が現れた。
「三毒とはなんだ」
 怪魔の変容にほんの少し顔をしかめながら、蕾が東雲に小声で話しかけた。
「人間の心を蝕むもっとも根本的な煩悩のことで、貧欲(とんよく:むさぼり)、瞋恚(しんい:いかり)、愚癡(ぐち:教えを知らないこと、無知)の三つを言うんだよ。だけど人間の煩悩はそれだけではおさまりきれるものではない。悲しみ、憎しみ、恨み・・・様々な負の感情が罪過を積み重ね、災禍を生む。それを懺悔し幸福を呼び込もうとするのが修二会の懺過の法要なんだ」
 怪魔の体に現れた人面瘡の中には泣いているもの、怒っているもの、叫んでいるもの、年若い者、年老いた者など、男女の区別なく様々な負の感情がひしめき合っていた。
「おきれいな天仙とて例外ではないわ。ほぉれ、見るがいい!」
 そう言って怪魔は握りしめた両手の拳をすっと二人の前に付きだすと、手のひらを正面に向けた。むくむくと皮膚が盛り上がり、しばらくするとそれは新たな人面をかたどった。
「何!?」
 それを見た蕾が思わず叫んだ。
「!?」
 東雲は息を呑み、一瞬、全身の血が引いていくのを感じた。そして驚きのあまり声すら出ないようだった。
 果たして怪魔の手のひらに現れた人面瘡は、もんどり打ったように眉をひそめ苦悩する東雲と、悔しそうに顔を引きつらせた蕾の顔であった。
「これはお主らの『迷い』、そして『妬み』だ」
 思わず東雲は一歩後ずさった。明らかに動揺しているようだった。体が小刻みに震えているのが蕾にもわかった。
「ばかものっ!!怪魔の口車に乗せられるな!」
 呆然とする東雲に、蕾は目が覚めんばかりの怒号を浴びせかけた。
「ご、ごめん・・・」
 蕾の怒鳴り声に我に返った東雲であったが、己の負の心を捕らえられた気がして、焦りをかくしきれず、どう対処していいのかわからなくなっていた。
「つまらぬことをしおって!」
 蕾の瞳にみるみる怒りの色があらわれた。
「春など訪れさせてなるものか!」
 春は季節としてもたらされるものだけではなかった。人の心の中にも様々な形で春は訪れる。たとえ季節が極寒の冬であったとしても、春を与え、また自らも感じることができる。それらすべての「春」を司る東皇使に怪魔は躍りかかった。
「うわぁっ!」
 神樹からなる守護の杖を手にすればかわせないはずのない動きに、東雲はあっけなくその牙の餌食となり、肩に一撃を受け大きく後方にはじき飛ばされた。
「東雲!!」
 それを見た蕾が椿の花を片手に怪魔に飛びかかった。しかし怪魔は以外にも身軽な動きでそれをかわすと、あざ笑うように蕾を挑発した。
「貴様!」
 蕾はギリギリと奥歯を噛みしめた。
「人間の負の心を利用し、春の訪れを阻止せんと計ったばかりか、永帝の皇子でもある東皇使にまで手を掛けようとするとは、このオレを怒らせたこと、その身をもって後悔させてやるぞ!!」
 怒りをあらわに、蕾は造花の椿を胸元に構えた。
「蕾っ・・・!?」
 全身からは気高くも鋭利な花気がみなぎり、全身をゆらゆらと陽炎のように包み込むと、手にしていた造花のはずの椿の花が生花のごとく生々しく輝いた。
 蕾はゆるやかに怪魔に躍りかかると、椿の花を数回、剣の切っ先のように翻した。閃きと同時に怪魔の体に幾筋もの光線が走り、シュウと音を立てていくつかの人面瘡が消え、祓濯された場所には火傷の痕のようなものが残った。
「ぬぅぅっ!」
 怒りに顔を歪ませた怪魔はぎょろりとした大きな目を飛び出すかと思うくらいにカッと見開いた。すると体中の人面瘡の口から黒い霧と化した邪気が大量に発せらた。
「蕾!」
 それは大きな一塊りになると一斉に蕾の方へと降り注いだ。
「神樹浄霧!」
 我を取り戻した東雲が守護の杖を出現させ、とっさに蕾を庇い、邪気はたちまち清浄な森林の気で浄化された。
「ぐうっ。かくなる上は二月堂もろともこの地を再び火の海に・・・!」
 分が悪いと悟ったのか、怪魔は今度は悔しさに顔を歪め、踵を返すと暗闇に紛れ込み二月堂へ向かおうとした。
「逃がすか!」
 ふわりと怪魔の前方に躍り出た蕾は再び椿の花を閃かせた。
「ぐあっ!」
 斜めに大きく走った閃光は、怪魔の体をそのまま二分した。
「花炎・・・」
 瞳を大きく見開き、蕾は手のひらに輝く花の炎を発火させた。
「祓濯っ!」
 それを怪魔目がけて投げつけると、たちまち怪魔は炎に包まれ、浄化の炎に苦しむ人面瘡の断末魔の悲鳴と共に闇の静寂に消えていった。

「東雲!」
 肩を押さえ、膝を突く東雲に、蕾は慌ててかけよった。
「大丈夫か、東雲!?」
「ああ、大丈夫。大した傷じゃないよ」
 またドジを踏んでしまったとばかりに、表情を強ばらせ、しかしそんな顔を見られたくなく、苦笑すると東雲は蕾の肩を甘んじて受けた。


 凍てつき澄んだ空に時折、二月堂に残った練行衆に進行を知らせるための法螺貝の音が響いた。
 厳粛な暗闇が篝火に照らされながら、役目を終えた練行衆たちが再び行列を組み二月堂へと戻っていく。何事もなかったように、何も知ることなく「水取り」は無事行われた。

「ほんとうに大丈夫か?」
 蕾の肩に寄りかかり、「水取り」を静に見守っていた東雲の体がかすかに震えているのを感じ、蕾は顔を覗き込んだ。
「ああ、ごめん。少し・・・ほんの少しだけ、このままでいさせておくれ」
 月明かりのせいか、少し青白い面の東雲の横顔に気づくと、いつもは強く突き放すところを怪我のことも考慮し、不本意ではあったが東雲の願いを聞き入れ、そのまま大人しくすることにした。
「・・・お前が何を悩んでいるのかは知らないが、あれは東皇使であるお前を惑わし、陥れるための奴の策略だ。気にすることはない」
 不器用な蕾の精一杯の励ましに、ほんの少しだが東雲の表情が、冬の寒さの中ほのかに陽光を受けた硬いつぼみがほころび始めるように和らいだ。
『いや、確かに私は迷いを持っている。それが何なのか、自分でもわからないけれど。そんな心の奥底の自分でも気付かない部分をあんな怪魔に気取られるなんて、私もまだまだ修行が足りないようだ。そしてそれを目の前に突きつけられたとき、己の心があれほどまでに動揺するとは思ってもいなかっただけに、ホントに焦ったよ。でも蕾、きみはほんとうに強いね。自らの境遇を呪うこともなく、何ものにも決して動じることもない・・・。そして、限りなく優しい・・・。そんなことを口に出したらきっとボコボコに殴られるんだろうけど・・・』
 「優しい」と言われ、顔を真っ赤にして怒りまくる蕾の顔を思い浮かべ、東雲は小さく苦笑した。

「この後、達陀(だったん)の行法が行われるんだ。火天と水天をメインに八天たちがね、鈴や錫杖、法螺貝の音にあわせて踊るんだよ。火天は堂内で大松明を振り回し、その炎で人々の心の穢れや煩悩を焼き払うんだ。そして水天が新しいお香水で浄化する。それは新しい春の始まりのためでもあるんだ・・・」
 蕾に話して聞かせることで、東雲の表情は幾分穏やかさを取り戻しつつあった。
「明日の夜はフィナーレで明後日が満行だな・・・」
 東雲の微かな笑顔に応えるように、蕾も呟いた。
 ふと気配を感じ振り向くと、茂みの中に、切ない笑顔を浮かべた椿の花精がこちらを見つめ立っていた。そして唇がなにやら小さく動くと、深々と頭を下げた。

 蕾はまだ明け切らない寒空を仰いだ。


 十四日十八時半、十本の松明がいっぺんに上堂し、欄干上に並んだ松明が激しく揺すられ、いっせいに走ると浄めの火の粉を振りまいた。人々の歓声と拍手の中、それはものの五分で終わった。

 去っていく人々の表情にはすでに「春」の痕跡があった。
「お水取りが終われば春が来る」と言われる大行事が滞りなく済み、安堵感と充実感が人々の心に春を呼ぶ。今年の春が人々の知らないところでもたらされたものであることは誰も知らない。しかし人々の「春」を願う想いが強ければ強いほど、この行事は「不退の行法」としてこれからも続いて行くに違いなかった。


「今日はいよいよ満行だね。二月堂で『達陀帽戴かせ』というのをやっているよ。なんでも達陀の行法で使われた蒙古の兜のような形をしたピカピカの金襴の帽子を幼児の頭に被せる行事でね、達陀帽を被った子供は健やかで賢い子に育つと言われているらしい。蕾、きみも被せてもらえ・・・ぶぁ!」
 言い終わる前に東雲は地面に沈んだ。
「つ、蕾ぃ~」
 朝陽を受け、傷は癒えたとはいえ、怪我人の東雲を殴り倒し、素知らぬ顔で歩き始めた、そんな蕾を東雲は必死に追いかけ、その両肩を掴まえた。
「ったく、情けない声を出すな!」
 肩越しに振り返った顔が、仕方のない奴め、と少し優しそうに見えた。
「あのね、元興寺の近くに売り切れ御免の美味しいおそば屋さんがあるんだ。あと国立博物館の前には人気の釜飯屋さん。ねえ蕾、どちらに行く?」
 そんな蕾に応えるように東雲はいつもの笑顔で話しかけた。至近距離で見る東雲の笑顔は蕾には強烈すぎるのか、特にこの日の東雲の笑顔は「春」そのもののようなものだったので、蕾は無意識にそれを感じたのか、たちまち顔を赤面させると右手が動いていた。
「ひどいじゃないか~、蕾~」
 なぜぶたれなければいけないのか、あまりにも理不尽な行動に東雲は抗議した。
「っるさい!さっさと歩け!」
 さらに赤面する顔を見られまいと、蕾はすがる東雲を尻目にずんずんと先に進んでいった。
「つぼみぃ~~~」
 東雲の嘆きは虚しくも晴れ渡る古都の空に消えていった。


『蕾、きみの中にも春は訪れただろうか。そして私はきみに春を贈ることができただろうか・・・』
 東雲は蕾の後ろ姿を静に目で追った。
 「迷い」は春の霞の中にとけるように消えていった。

「何をしている!そば屋に行くぞ!」
 思わず歩を止め立ちすくんでいた東雲に、蕾が振り返り大声で呼んだ。いつもの蕾の顔だった。東雲は小さく笑みを浮かべると、蕾に向かって歩を弾ませた。
「じゃあ、お昼はおそばで夕飯は釜飯だね」
「おまえのおごりだぞ」
「ええっ!?」
「当然だ!」
 蕾の仕打ちに顔をしかめながらも、思い直すと自然と笑顔が戻った。そして満面の笑みを浮かべると、東雲は当たり前のように蕾の横に並び、共に歩き始めた。


 ほんの少し冷たい風が傍らを通り過ぎていく、春まだ浅い大和路の、そこだけがあたたかくやわらかな春の兆しを象徴しているかのようだった。

    ・・・せめて今は、ほんのひととき、きみと迎えた春を満喫しよう。

おわり