ka-rin-blog.cocolog-nifty.com > novel BUD BOY

救いの天使

救いの天使

水底からユラユラとたゆたう水泡は、まるで畏界の湖に咲く白い花のようだった。それは遥か高くにまで昇り、溢れんばかりの愛しい想いを誰かに伝えてくれる、美しい不香の花のようにも思えた。
 穏やかに、切なく…。
 いつの間にかすべてをやさしく包み込み、恐怖に搦め捕られた心をも癒してくれた唯一の存在。
 ─だいじょうぶ─
 と心の中に浸透し、語ってくれる。
 ただひとつの、彼らの大切な花…。

 ─なぜ今まで気づかなかったのだろう。私たちは常にひとつのはずたったのに─

 禍々しい湖にも穢れを知らない、永遠無垢な魂。それはまるで心の中にやさしく降り積もる、聖なる者の言霊のよう。

「まだ、気にしているのか?」
 自らの片割れである第九皇子。その弟の真実の苦行を知った東雲は、執拗以上に自分を責め続けていた。どうにかできるものなら、今すぐにでも実行したかったし、自分の身がどうなろうと、弟を助けたいと心から願っていた。しかし現実はそんなに甘いものではなかった。誰にも、どうすることもできないことが、この世には存在したのだ。
 罪悪感…。蕾にそう言われたとき、はっとなった。確かに感じていたものはそれかもしれなかった。何も知らなかった自分が無性に腹立たしかったのも事実だ。しかし、いつまでも気をもんでいても何も変わりはしない。自分が弟以上に苦しんだとしても、事態は何ひとつ変わることはない。しかし、だからと言って、そう簡単に割り切れる問題でもなかった。

 ─ただ、言葉がほしかった…─

「どうか…?」
 天界に咲く花花に囲まれ、清浄にして穏やかな空気が漂う、ここは第九皇子と蕾が共有する夢の世界。花びらがゆるやかな風に舞う中、第九皇子は苦しそうに胸元をキュッと押さえた。
「最近、胸の辺りが痛むのだよ」
「どこかお悪いのでは?」
 体の異変を訴える第九皇子に、蕾は心配そうに顔を覗き込んだ。
「いや、体ではないのだよ。心が…心がなんだか痛むのだよ」
 第九皇子は少し困ったように苦笑してみせた。
「蕾、たしか私には双子の兄がいる、と言っていたね」
「……」
 蕾は返答に困った。限られた世界しか知らぬ第九皇子に、どこまで話してよいものだろうかと。
「…蕾、この痛みは兄上のものではないだろうか。兄上は私のことを御存じなのだろう。もしかして私のことを案じて、兄上がお心を痛めておいでなのではないだろうか?」
 蕾は一瞬息を詰まらせると、うつむいた。そして罪悪感に苛まれた東雲の横顔が、脳裏をよぎり、思わず顔をしかめた。
「私は今とても幸せなのだよ。その私の胸が悲しいくらいに痛むということは、兄上のお心が病んでいるとしか考えられないのだ。それも私が原因であるのなら、なおのこと心配なのだよ」
「皇子どの…」
 第九皇子の顔に、不安の陰を浮かべた東雲の顔が重なって見えた。
「蕾…!」
 返す言葉が見つからず、とまどっていた蕾に、第九皇子は口元に笑みを浮かべながら振り向いた。
「私が幸せになれば、兄上の心の痛みもなくなるのだろうか。私が今、こんなにも幸せなことを兄上はきっと御存じないのかもしれない。だとしたら兄上のお心が痛まぬよう、私はもっと幸せにならなければいけないね。これからは兄上のことも想って眠ろう。兄上とは一度もお会いしたことはないし、これからもお会いできることもないだろうが、私は確かに兄上のことを知っているよ。なぜなら、私と兄上は、同じ魂の持ち主なのだから」
 ─これから夢の中では三人だね─と、第九皇子は柔らかい笑みを蕾に投げかけた。
「私の幸せは蕾、お前と出会えたことだ。兄上がお前のことを知っていると思うと、よけいにうれしくなるよ。お前は私と兄上をつなぐ糸かもしれない。私がお前を大切に想っているということは、兄上もきっとそうなのだろうね」
 一瞬、蕾には第九皇子の笑顔と東雲の笑顔とが重なって見えたような気がした。
 大切に想っている…。それは蕾も同じだった。第九皇子も東雲も、共に彼の大切な、かけがえのない者たちに違いはなかった。
「蕾、お前に頼みたい。兄上が私のことで悲しむことのないよう、ずっとそばにいてさしあげてはくれないだろうか」
 ─私と逢う時と同じ心で、兄上のそばに…─
 第九皇子は蕾の前にひざまずくと、穏やかで屈託のない笑顔を向け、その手を取った。


「あのお方はお前が不幸になることを望んではいない。自分が幸せになることで、お前も幸せになると信じておられる。お前たちの心はもともとは一つだったんだ。お前が悲しめば、あのお方のお心も悲しむ」
 自分の置かれた立場を悲観するどころか、見知らぬ兄や蕾を思いやる第九皇子の心の切なさ。反面、何も知らなかった自分、どうにもできない自分、どうにかしてやりたかった自分を責めていた東雲。できることは本当に何もなかったのだろうか?いや、その答えはたった今、蕾が教えてくれたではないか。せめて、己にできる、ささやかにして唯一のことを…。

「弟は救われた…」
「え?」
 東雲のつぶやきを聞き漏らした蕾が訊ねた。
「いや、なにも…」
 東雲は、再び小さくつぶやいた。その横顔はいつしか安堵の表情に変わっていた。
 ─君の存在が弟の心を救った。そしておそらくこの私の心も…─
 重く、苦しい心の枷を外してくれたのは悪戯ばかりする花の天使だった。それは、態度とは裏腹に、いつも人の心を光で満たしてくれる優しさの持ち主…。


初冬の風が吹き始めた夜、彼らの心の中はいつまでも温かだった。


おわり